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【元日本代表パラアイスホッケー銀メダリスト・上原大祐】~やんちゃな少年がパラ五輪を目指すまで(前編)~

長野県軽井沢町出身の元日本代表パラアイスホッケー(アイススレッジホッケー)選手。2006年トリノ、2010年バンクーバー、2018年平昌の3大会パラリンピックに出場。2006年トリノではチーム最多ゴールを挙げ、2010年バンクーバーでは準決勝のカナダ戦で決勝ゴールを決め、銀メダル獲得に貢献した。 引退後はNPO法人D-SHiPS32(ディーシップスミニ)を設立。世の中にある課題を次世代に残さないようにアグレッシブに取り組んでいる。また、一般社団法人障害攻略課 代表理事として「社会障害」の攻略や商品開発など、すべての人が暮らしやすい日本社会を目指し活動。前編では、上原大祐さんの幼少期から学生時代、パラアイスホッケーとの出会い、そしてパラリンピック出場について伺った。

意欲が旺盛な学生時代、パラアイスホッケーとの出会い

1981年12月27日、年の瀬間近の真冬の軽井沢で上原大祐は産声をあげた。だが二分脊椎症により脚が動かない。二分脊椎症とは、生まれつき背骨の後ろ側が閉じきっていない病気。背骨の中には脊髄という神経があり、背骨が閉じきっていないと脊髄に悪影響を与えて、下半身の痛みやしびれ、麻痺などさまざまな症状が現れる。

しかし好奇心旺盛の上原少年は『何でもやりたい!どこでも行きたい!見たい!聞きたい!触りたい!』の『WANT TO』だらけ。「毎日、ターザンみたいに遊んでいました」と語るように魚取りや昆虫採集、山菜採りと自然豊かな軽井沢で、のびのびと育った。「私が遊びに行くと、なにかしら夕食のメニューが増えました」と懐かしそうに幼少期を話してくれた。

上原さんが明るく育ったのは母・鈴子さんの存在のおかげ。

「母は何に対しても、『ちょっと待ってね』なんです。母から『それは無理だよ』とは一度も聞いたことがない。最初から『できない』と決めつけるのではなく、『どうすればできるのか』を考えて、できるために行動していた」

小学校は特別支援学級ではなく、普通学級で学校生活を友人たちと過ごしていた。中学生、高校生になっても、そのアクティブな性格は変わらず、中学では友人の自転車、高校では友人のバイクにつかまって通学。車椅子の車輪が壊れ、よく修理に出した。

「頻繁に車椅子を修理に出していたので、販売会社の社長から『お前ほど車椅子を壊すやつはこの世におらん』と(苦笑) 。それで『やんちゃぶりがホッケーに向いてるから来い』とパラアイスホッケーに誘われました。それで高校卒業後、車の免許を取り、ホッケーを始めました。だから『車椅子壊すことはいいことだ』って、いろんなところで子供たちに講演会してます。お母さんやお父さんの顔が引きつっておりますけどね(笑)」

アメリカに渡り、体が小さくても大きな選手と向き合える技術を習得

金メダルを取りたい!という気持ちを原動力に、新しい扉を開く

車椅子を壊しまくり、販売会社の社長からパラアイスホッケーに誘われた上原さん。スポーツには向き不向きがある。初めてのパラアイスホッケーはどうだったのか?

「元々、体動かすことは好きでした。ただ普通学校だから、みんなとガッチリスポーツできなくて、当時は音楽をやっていたんです。車椅子バスケもやりましたが、全然うまくできなくて、『スポーツは向いてないんだな』と思っていた。でもパラアイスホッケーは、すごくしっくりきました。『これ、楽しい!』という感覚。それでホッケーの体験会初日に、「パラアイスホッケーで金メダルを取りたい」と感じて、目指していた音楽の先生をやめました(笑)」

2001年、上原さんは大学2年でパラアイスホッケーを本格的に始めた。その2年後、日本代表に選出。金メダルを目指し、2003年から2006年の間に何度も渡米し、アメリカのクラブチーム、シカゴ・ブラックホークスで武者修行。

「そこに世界一のプレイヤーがいたんです。彼から色々教えてもらい技を学びました。パラアイスホッケーは体が大きい方が有利ですが、頭を使うことで体が小さな私でも勝てることを知りました。バンバンぶつかるんじゃなくて、『相手との距離をどれだけ上手に保てるか』『どれだけ早くターンするか』、そういった小技を練習した結果、自分より大きい選手とも互角以上に戦えるようになりましたね」

2010年バンクーバー、銀メダル獲得へ歴史的快挙の立役者

上原さんは日本代表として、2006年トリノパラリンピックに初選出された。結果は5位だった。トリノでメダルに届かなかった理由を、「チームとして力み過ぎた。心をフリーにする時間がなく集中力が持続できず疲れてしまった」と自ら分析している。

戦うのはフィールドだが、それ以外の時間の使い方も重要。「だから2010年は監督とリフレッシュする時間の大切さを話し合い、『ON−OFF』を実践しました」と当時を振り返った。その甲斐もあって日本チームは2010年バンクーバーパラリンピックで史上初の銀メダルを獲得。その功績が高く評価され、2011年に国際パラリンピック委員会(IPC)が夏季、冬季両大会を対象に選ぶ「Best Team Award」に輝いた。

そして2014年に引退発表。パラアイスホッケーから選手として一線を退いた。「これからは支える側で頑張ろう」と様々な活動も開始。

ところが2017年に現役復帰。上原さんは日本代表選手として平昌2018冬季パラリンピックに出場した。復帰への経緯を聞いてみた。

「2014年にNPO法人D-SHiPS32を起ち上げて、いろんな人たちから『ダイちゃんのホッケーした姿が見たかったな』と言われるようになりました。2020年に東京オリパラ開催が決まり、NPO活動していく中で『私が復帰して、子供たちに挑戦する楽しさやホッケーの楽しさを伝えられるなら、NPO活動の一環だな』と思いました。それとメディアに取り上げてもらえることで、D-SHiPS32の活動をみんなに知ってもらえるきっかけになると考え、復帰を決意しました」

トップアスリートとして現役最後のチャレンジ、平昌パラリンピックに臨んだ上原さん。3度目の大舞台は全敗という悔しい結果に終わったが、パラスポーツの普及活動やNPO活動に向けて、フツフツと情熱が湧き上がってきた。
後編へ続く)

取材・文/黒澤浩美 写真/本人提供

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