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オシム監督がジェフ市原千葉に残したものートップチームマネージャー (当時)の加藤豊氏に聞くー 

  2022年に亡くなったイビチャ・オシム氏は、2003年から2006年までジェフユナイテッド市原・千葉(以下ジェフ)の監督に就任し、2005年のヤマザキナビスコカップでは優勝に導いている。

  当時から哲学的な言葉でサッカーを語ることなどがマスコミに数多く取り上げられていた監督であったが、退任から約20年たった今も、オシム監督との思い出を語る人は少なくない。

    今回のインタビューでは、オシム監督就任時には、ジェフのチーム統括部課長トップチームマネージャー(主務) としてオシム監督と話す機会も多かった加藤豊氏(現在はユナイテッド事業部次長 兼 コミュニケーション・マーケティンググループマネージャー)に、オシム監督との思い出について聞くことができた。

オシム監督との思い出を語る加藤豊氏

「それは日本の常識だが、私の知る常識じゃない」

オシム監督がジェフの監督に就任した時の状況を、覚えていらっしゃいますか。

加藤豊氏(以下、敬称略)「2003年の1月下旬に、当時のジェフ市原のゼネラル・マネージャーがオシム監督の自宅のあるオーストリアに行って監督就任を口説き落としたと、電話連絡がありました。

    ただ当時はすごい名将がくるという思いよりも、2月から始まるシーズン前の韓国キャンプを成功させること、そしてオシム監督をどうやって合流させようかと考えるのに、みんなが精一杯でした。幸いビザの問題はクリアしましたが、プレシーズン前の時間がない中で、オシム監督をどのようにクラブに迎えるかということばかり考えていましたね。

    サッカーチームでは監督が交代することはあることですし、オシム監督の前にも外国人監督をジェフは迎えたことがあったので、通常の監督交代の一環としてオシム監督の就任を見ていたと思います。」

では、オシム監督に実際に加藤さんがお会いになったのは、韓国でのキャンプ中ということになりますね。

加藤「そうです。韓国合宿の2日目か3日目の夕食で、初めて直接お会いしました。その時、オシム監督は夕食会場で選手たちが座るテーブルをコツコツと叩きながら、何も言わずに、あの大きな体でゆっくりと会場を歩いて回りました。その後、『監督、一言ご挨拶をお願いします』と言ったら、オシム監督は『もうキャンプは始まっている訳だし、自分が挨拶をしなくていいだろう』と言って、そのまま会場を出て行ってしまったんです。さすがにその時は、私も『何だこの監督』と思いました。

    でも、その直後に改めてスタッフ全員でオシム監督の部屋にミーティングのために行くと、監督は『これからこのチームを良くしていくために皆さんの助けが必要です。これからよろしくお願いしたい』と話して、さっきと全然違うな、と思いましたね。」

当時オシム監督は選手にはかなり厳しい監督だ、という報道もされていました。スタッフに対しても、やはり厳しい方だったのでしょうか。

加藤「確かにスタッフに対しても求めるレベルが高く、非常に厳しい人だったのは事実です。オシム監督からのリクエストを確認している最中に、こちらが感情的になるような話をされ、私も反発してしまい監督に言い返したことも実際にあります。でも、そうしたときには、監督に認められるために『監督の要求以上のことをしないとだめだ』とも思いました。

    オシム監督は厳しい中にも人間的な深みというか、優しさのある人でしたので、監督の要求に応えたいという気持ちは私だけでなく、スタッフみんなの中にありました。実際に、クラブや選手が監督の要求に応えたときには、いつもその成果を監督自身が認めてくれました。だからいまでもオシム監督を尊敬している人が多いのだと思います。

   オシム監督は、私たちが『これが日本では常識なんだ』ということに関しては、いつも厳しい対応をしていました。『それは日本の常識かもしれないが、私の知る常識じゃない』ということは何度も言われました。」

オシム監督のトレーニングは、それまでの監督のトレーニング方法とは違い、当日その場でトレーニング内容が選手やスタッフに伝えられることも多かったと聞いています。スタッフは大変だったのではないでしょうか。

加藤「オシム監督から『ビブスを10色用意してほしい』と言われて、当時契約をしていたスポーツメーカーさんにお願いしたことがあります。でも、一番大変だったのは、オシム監督は練習前にスタッフとミーティングをしないことが多かったので、どのようなトレーニングでもできるように、あらゆる準備をしておく必要があったことです。

    オシム監督は練習開始の10分くらい前にクラブハウスに来ると、そのままグランドに行ってしまうことがよくありました。そして選手の様子を見てから、その日のトレーニング内容を決めていました。また、毎日異なるトレーニングをするうえに、トレーニング中に無駄な時間が生まれることを許さない監督でした。そのため、私達スタッフは、トレーニング中は選手と同じように走り回って、必要なものを選手に配ったり、グループ分けを伝えたりしていたんです。

   また、オシム監督は、決してトレーニングの目的を言わない人だったんです。例えば、ピッチの全面を使って、2選手対2選手でゲームを始めます。でも、ゲームが進むうちにそれが2選手対3選手、3選手対4選手、と数が増えて、最終的に11選手対11選手までなった時点で、トレーニングが終わることがありました。これは、数的優位を作ってゴールを決めるためのトレーニングでしたが、そうしたトレーニングの目的を直接監督に質問しても、監督はいつも『自分で考えろ』と言うんです。

    毎日異なるトレーニングをしながら、監督自身はそのトレーニングの目的を伝えないので、選手やスタッフの間で『今日のトレーニングの目的はこのようなことじゃないかな』という会話が生まれました。」

トレーニング中に指示を出すオシム監督

日本の平和を実感していたオシム監督

当時オシム監督は、選手とサッカー以外の話をされることはあったのでしょうか。

加藤「一見サッカーとは関係のない話をしているように見えて、その本質としてはサッカーにつながるような話をしていました。

   例えば、ある日高級車に乗ってトレーニングに来た選手がいたことがありました。その時オシム監督はその選手に「あの車はお前のか?いくらかかった?』と質問するんです。そして値段をその選手から聞いた後に『このような順位にいるチームの選手なのに、高級車なんかに乗ってもう満足しているんだな』ということを、ちょっと嫌味な感じで言うんです。

   しかも、そうしたことをゲーム前の選手との最終ミーティングで話したりするんです。通常、ゲーム前のミーティングでは、その日のゲームの戦術的な確認などをすることが多いのですが、オシム監督は時々そんなゲームとは全く関係ないことを選手に話すことがあったんです。

  監督がゲームに関しては何も言わずに、チームメイトの車の話なんかしているわけだから、選手たちは驚きますよね。それで選手やスタッフ同士で『あの監督の話、どういう意味なんだろう』と話すことが多かったです。

  でも監督の話を通じて、ジェフの選手やスタッフがよく見てよく考えるようになることが、当時のオシム監督が求めていたことなんだと思います。」

 オシム監督が「日本とは」あるいは「日本人とは」というようなことを、話されたことはありますか

加藤「2003年の韓国キャンプが終わって、当時の住まいになる市原市内のマンションに、オシム監督を連れて行った日のことでした。

  ちょうどごはんの時間だったので、そのマンションの近くにある居酒屋に、オシム監督と当時のゼネラル・マネージャーと私の3人で入ったんです。その時、オシム監督は初めて日本酒を飲んだようで、その後日本酒が大好きになったのですが(笑)。

   するとオシム監督が、不意に私とゼネラル・マネージャーに『お二人は、拳銃を持ったことはあるか?』と質問したんです。もちろん私達二人は『いや、ないです。』と答えたら、オシム監督も『私も拳銃を持ったことはないんだ』と話したんですね。

   オシム監督の母国の旧ユーゴスラビアでは内戦状態にあった時期があって、『隣人だった人が、次の日には銃を向けるようになってしまう国だった』と話してくれました。そしてオシム監督は『日本はこんなふうに外でお酒が楽しく飲めて、たわいない話がたくさんできる平和な国だ。この平和を日本人はもっと実感すべきだ』と言ったんですね。それを聞いて、オシム監督は平和に関しての意識がここまで高い人なんだ、と感じました。

    また、それまで私は何人もジェフの監督になった方にお会いしましたが、みんな任期中にチームの監督として私と話をしていた人ばかりだったんです。でも、この時のオシム監督はジェフの監督としてだけじゃなく、一人の人間として感じたことを話してくれたことが私にもわかりました。」

最後の質問です。オシム監督がジェフに残した財産というものは、ありますか。

加藤「確かにオシム監督がジェフにいた3年半は、非常に密度が濃くて、選手たちも成長した期間でもありました。ただ、オシム監督のいたチームでよく見られる現象として、『オシムの後には草も生えない』と言いますか、オシム監督時代には非常に実績を出しても、その後チームが低迷する傾向があったんです。

    オシム監督は『野心を持て』と日頃から言っていたので、選手はどんどん他のチームに行きました。また、オシム監督のいた時代があまりに濃密過ぎて、監督が去った後に私達も喪失感に近いものを感じてしまったのかもしれません。

   ただ、現在のジェフの中に、オシム監督の残した財産を直接的な形で見つけるのは、率直に言ってほぼ不可能だと思います。ですが、ジェフを去って20年にもなるというのに、オシム監督と同じ時間を過ごした人たちが集まると、いまだにオシム監督の思い出話に花が咲くのもやはり事実です。

   多くの人にとって、オシム監督は尊敬する監督ですし、私もその一人です。そうした意味で、オシム監督はやはり多くの人に影響を与えた監督であったと言えますね。」

    オシム監督がジェフを去って、すでに20年近い時間が経過している。にもかかわらず、当時のスタッフや選手はオシム監督との様々なエピソードを本当に生き生きと語る。その理由の一つとして考えられるのは、オシム監督が、自分の頭で考える重要性を、直接的な言葉だけでなく、日頃のトレーニングや会話を通して選手やスタッフにいつも伝え続けていたことにあるのではないだろうか。

    例えば、今回の加藤氏のインタビューで聞かれた「それは日本では常識だが、私の知る常識じゃない」というオシム監督の言葉がある。一見エゴイストのように感じてしまう言葉ではあるが、これが「よく見て、よく考えること」を常に選手やスタッフに求めていたオシム監督の言葉であることを、忘れるべきではない。

     オシム監督がジェフに残したエピソードや言葉は、時代や世代を超えて、オシム監督の思いとともに、サッカーを愛する人のもとへとこれからも届けられるだろう。

(インタビュー・文 對馬由佳理)(写真提供 ジェフ市原千葉)

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