• HOME
  • コラム
  • その他
  • 【全日本プロレス 宮原健斗】12.31代々木で7度目の三冠王座に返り咲き、エースとして2024年をスタートさせる

【全日本プロレス 宮原健斗】12.31代々木で7度目の三冠王座に返り咲き、エースとして2024年をスタートさせる

宮原健斗(みやはら けんと)、1989年2月27日生まれ。福岡県福岡市出身。2008年に健介オフィスでデビュー。2014年に全日本プロレスに入団。2016年には史上最年少26歳11か月で三冠ヘビー級王座に就き、これまで6度戴冠。キャッチフレーズ「満場一致で最高の男」を掲げ、入場シーンから退場する瞬間までファンを引き付けて離さないスーパースターである。

テレビの中のハルク・ホーガンに魅了された子供時代

宮原健斗はプロレス好きの父が毎週購入するプロレス雑誌を小学2年の頃から読んでいた。深夜に放送していたプロレス番組を録画し、翌日鑑賞するのが日課。

「全日本プロレスと新日本プロレス、両方観ていました。僕は闘魂三銃士(武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也)より四天王(三沢光晴・川田利明・田上昭・小橋建太)が好きでした。それから、ハルク・ホーガンに魅了されて、レンタルショップのプロレスコーナーでWWF(現WWE)のビデオを借りてきて食い入るように観ましたね。」

小さい頃は体が細く、プロレスラーや力士など体格の良い男性に憧れた宮原少年。中学時代は野球に打ち込んだものの、高校進学後は、レスラーになるために柔道を始めた。

「プロレスのパンフレットを見ると、レスラーのスポーツ歴に『レスリング』『柔道』『空手』と記載があり、それで高校に入学後プロレスラーを目指して柔道をはじめました」

順調に身体を鍛えていた宮原は、高校3年の10月にプロレス雑誌で健介オフィスの新人募集の記事を目にし、履歴書を送った。

「佐々木健介さんも僕と同じ福岡県出身。当時、プロレス業界を健介ファミリーが席巻していたんです。それでビビッと来ました!」

だが入門テストは不合格。帰り際、佐々木健介に「まだやる気があるなら、また来い」と声をかけられた。

「心が折れましたね。新幹線で東京―福岡間は約5時間半。『これはちょっとやべえな。プロレスラーになれないかもしれない』と車内で落ち込みました。人生で初めての挫折。『俺からプロレスラーになりたいという希望を失ったら何も残らねぇな』って真剣に考えました。翌日には復活しましたけど(笑)」

プロレスラーになること以外考えられなかった宮原は、翌日からさらに練習に励む。

「プロレスの入門テストって大体1回受ければわかるじゃないですか。その4倍、5倍やればテストは受かるんじゃないかなと思って、毎日プッシュアップやスクワットを1000回やって体を鍛え直しました」そして、3か月後に受けた入門テストは合格、2006年3月に上京し入寮した。

2008年2月、真田聖也(現SANADA)戦でデビュー

練習が厳しいと噂されていた健介オフィス。寮生活は練習と洗濯と掃除、外出はスーパーの買い出しのみ。

「寮生活で自由はなかったですね。僕の中で『プロレス業界はこんな感じなんだろう』と予想はしていました。練習もほぼ想像通りでしたね。ただ自由がない生活なので、シンドイと言えばシンドイですよ。でも18歳でプロレスラーになる目標があったので自分の道を純粋に歩けたのかもしれませんね」

宮原は2008年2月11日に真田聖也(現SANADA)戦でデビュー。緊張のあまりデビュー戦の記憶がないレスラーは大勢いる。宮原もその一人だ。

「デビュー戦は覚えていないですね。試合前、健介さんの荷物整理から始まり、試合中はセコンド業務もあります。新人の頃は仕事量が多く、自分の試合だけに集中することはできなかった。『あの荷物持ったかな?』とか気にしなければならないこともたくさんありましたからね」

デビュー当時は多事多端で心身ともに余裕のなかった宮原も、今では、入場した瞬間から退場するまで「スーパースター‘宮原健斗’」をファンに見せてくれるゆとりさえ感じられる。宮原本人が思い描いた「宮原健斗」とファンが求める姿が一致したのは、いつ頃だったのか?

「2016年に三冠ヘビー級王者になってからですね。自分の身体、言動、表情で会場のお客さんを魅了できるようになったのは2017、2018年くらいです」

著者が宮原健斗に注目したのは、2019年2月19日に両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没20年追善興行」。メインイベントのリングに登場した宮原は、対角に立つ‘100年に1人の逸材’棚橋弘至(新日本プロレス)と同等か、それ以上のオーラを放っていた。

宮原健斗は史上最年少26歳11か月で三冠ヘビー級王者に輝いた

ダイヤモンド・リングを離れ、全日本プロレスに参戦

デビュー後、所属していたダイヤモンド・リングだけでなく全日本プロレスやプロレスリング・ノアにも参戦していた宮原は2013年9月、ダイヤモンド・リングを退団。2014年1月、全日本プロレスに入団した。

「ダイヤモンド・リングの興行が少なくなると聞いて退団を決めました。デビュー6年目、僕は試合をしたかった。それで健介さんと北斗晶さんに相談しました。ちょうど全日本からオファーをいただきました。もちろん当時、僕がダイヤモンド・リングを辞めることは、全日本では誰も知りません。その時期が重なって運命的なものを感じたんです」

ダイヤモンド・リングは佐々木健介と北斗晶を中心とするアットホームな団体。一方、全日本プロレスは新日本プロレスに次いで、存在するプロレス団体としては二番目に歴史が古い団体だ。老舗団体への移籍は、とまどいがなかったのだろうか?

「あの頃の僕は強くなることに必死。全日本の選手は体が大きく当たりが強かった。とくに当時の三冠ヘビー級王者が元横綱の曙選手、200kg越えの化け物です。一発の打撃がすさまじかった。でもこれを攻略しないと先がないなと。体格的には負けるけど、自分の体格でどうしたら三冠を獲れるんだろうって虎視眈々と狙っていましたね」

186㎝102kgとレスラーとして恵まれた体格を持つ宮原だが、全日本プロレスは規格外に大きい選手が多い。そんな超スーパーヘビー級のレスラーと日々戦うことで着実に力をつけた。

これまでプロレス大賞・殊勲賞を2016,2019,2022年と3度獲得

史上最年少26歳11か月で三冠ヘビー級王者に

2016年2月12日、宮原は第54代三冠ヘビー級王者の諏訪魔に挑戦する予定だったが、諏訪魔がアキレス腱断裂による欠場のため、王座返上。急遽開催された三冠ヘビー級王座決定戦で宮原はゼウスと対戦し勝利。宮原は史上最年少、第55代三冠ヘビー級王座戴冠を成し遂げた。

「三冠ヘビー級王者になりましたけど、プロレスファンに認められてないのを肌で感じました。諏訪魔選手に勝って王者になったわけではない。王者がケガでタイトルを返上、ゼウス選手との王座決定戦でベルトを獲得。でもその頃、僕はトップ戦線に絡んではいなかった。どう考えても消去法のチャンピオン。『よし、俺が三冠ヘビー級王者になった。全日本を引っ張っていくぞ』という気持ちはなかったですね。ただ、あの頃、三冠王座は年齢が30~40代。『おじさんばっかり活躍してもしょうがない』と僕は思っていました」

そして‘消去法のチャンピオン’宮原健斗は王座戴冠を機に、リング上の戦いでプロレスファンの評価を変えていく。同年3月21日、大森隆男を下し初防衛。5月25日に大日本プロレスのエースで2016年チャンピオンカーニバル覇者・関本大介、6月15日はKAIENTAI DOJO(現2AW)の真霜拳號、7月23日には当時全日本プロレスの代表取締役社長である秋山準、8月27日はプロレスリングLAND’S ENDの崔領二を倒し、6か月で5度の防衛を成功させた。

宮原がタイトルを防衛するたびに、会場から起こる拍手と歓声が確実に増えていった。そして11月27日両国国技館、ケガから復帰し王道トーナメントを制した諏訪魔が挑戦者として名乗りをあげた。試合は諏訪魔の一撃必殺‘ラストライド’を3度跳ね返し、最後はシャットダウン・スープレックスで宮原健斗が勝利。翌週のプロレス誌の表紙を飾り「宮原イヤー」と評された。

「三冠王座を防衛するたびに、自分が少しずつプロレスファンに認められていくのを肌で感じましたね。プロレス専門誌の表紙を飾り、気になったファンから『最年少で三冠王者の宮原はどんな試合をするんだ』と関心を持たれている実感もあった。とにかく毎回必死に防衛し、いい試合をお見せすることを心がけていました」

「宮原イヤー」を象徴するかのように、2016年のプロレス大賞は単独ノミネートかつ棄権者無しの「満場一致」で、宮原健斗が殊勲賞に選ばれた。ここから宮原の愛称である『満場一致で最高の男』が生まれた。

コロナ禍では会場にお客さんを入れず無観客試合が行われた

16年間で一番印象に残っていること、一番悔しかったこと

プロレス界で16年間活動してきて一番印象に残っていることを聞いてみた。

「コロナ禍が明けて、会場に声援が戻ってきたことです。とくに今年10.21後楽園の宮原健斗vs青柳優馬の三冠戦は大歓声の中で行われた試合で印象に強く残っていますね。前回の2022年5月、札幌大会での宮原vs青柳の三冠戦の時は声援が全くなかった。コロナが原因とはいえ声援を浴びることができなかったのは、長いプロレスの歴史において初めてじゃないでしょうか。やっぱり盛り上げるために身体を張って試合をしているので、声援がないのは寂しかった。この3年間、大爆発する声がなかったですから」

逆に16年間で一番悔しかったことは何だったのだろうか?

「2016年2月12日、史上最年少三冠王者になった時、試合後のマイクパフォーマンスで、お客さんがヒートアップしなかった。記録を更新した喜びではなく観客に求められていない王者『消去法でのチャンピオン』だと感じました。だから『宮原健斗のTシャツを着てタオルを持ったファンが会場に埋め尽くすこと』を想像しながら、一試合一試合戦ってきました。エンターテインメントは楽しくなければお客さんは来ない。いくらプロレス論を語ってもお客さんが集まらないと意味がないんです。入場からの『健斗コール』や試合後のマイクは、昔からの全日本プロレスファンからすれば理解しにくい部分ではあると思います。でも伝統をこのままやっても厳しいと感じた。2016年に『最高ですか』って言ったとき、『何言ってんだ、こいつ』という会場のお客さんの空気感は悔しかったですね」

11.5札幌、青柳優馬を破り三冠王座を奪取した中嶋勝彦は次期挑戦者に宮原を逆指名

2023年12月31日、三冠王者・中嶋勝彦へ挑戦

そんな宮原健斗の2023年はまだ終わらない。12.31代々木での三冠ヘビー級選手権試合で宮原は、王者・中嶋勝彦に挑戦する。

中嶋は健介オフィス、ダイヤモンド・リング時代の宮原の先輩。プロレスリング・ノアで活躍していた中嶋と全日本プロレスの宮原は交わらないと思われていた。しかし今年2月、東京ドームのリングで再会を果たした。この時は6人タッグで対戦、そして7月ノア後楽園大会「One Night Dream」と称された禁断のスペシャルシングルマッチが行われた。宮原vs中嶋の対戦カードのみ発表され、その時点でチケットはソールドアウト。魂を削り合う戦いは中嶋が勝利、先輩が意地を見せた。

この時、宮原は「今日限りで終わるのか、果たして次があるのかはプロレスファン次第だ。俺はいつでも借りを返す準備を整えておくよ」と悔しさをにじませた。

「本当に僕は(中嶋を)毛嫌いしてたんで、もう二度と交わることはないと思っていた。でも人生って分からないものですね」

中嶋は今年9月に所属していたプロレスリング・ノアを退団。10.21後楽園の三冠戦後の会場に突然姿を現し、持っていた花束で宮原をぶっ叩いた。その後、11.5札幌で青柳優馬に勝利、三冠王座を戴冠した。

12.31は流出している三冠王座を取り戻すこと。そして、7月に敗れた中嶋に2度は負けられないという頑強な気持ちで挑む宮原にとって重要な一戦だ。

「こういう負けられない戦いのシチュエーションというのは、あまり味わったことがないですね。しかも(中嶋と)三冠ベルトを賭けるじゃないですか。むしろ三冠ベルトを賭けて戦うなんて思ってもなかったですね。自分がプライドを持って魂を込めた三冠ベルト。これを僕が大嫌いな人が巻いているので。だから大晦日、すべてを終わらせてやろうと思います。僕が勝って全日本プロレスの2023年をキッチリ締めます」

12.31代々木、三冠王者の中嶋勝彦に挑戦する宮原健斗

2024年、宮原健斗が描く全日本プロレス

最後に宮原が描く2024年を聞いた。

「全日本プロレスの『ゼンニチ新時代』と呼ばれる若い世代がトップ戦線に来ることは間違いない。今年プロレス大賞新人賞の斉藤ブラザーズはタッグで日本のプロレス界の中心に行くだろうし、プロレス大賞技能賞の青柳優馬も三冠王座返り咲きを狙っている。Jr. BATTLE OF GLORY2023覇者・田村男児も世界ジュニア挑戦が決まった。昨年デビューの安齊勇馬も新人とは思えないスピードで成長しているし、王道トーナメント準優勝の本田竜輝や世界最強タッグ優勝の大森北斗、前世界ジュニア王者の青柳亮生やライジングHAYATO、井上凌も黙っていないでしょう。まもなく復帰する芦野祥太郎だって三冠王座を目標にしてるはず。こんなに素晴らしいレスラーが全日本プロレスにはいるんです。それに新人オーディションが開催された。若い世代がドンドン出てくる環境作りをしなければいけないんです」

デビュー16年目の宮原健斗は全日本プロレス全体のことを俯瞰し、選手それぞれの状況を把握している。ところで個人的な目標は…

「新世代の壁として僕は存在しないといけない。今までは下の世代を引っ張り上げようとしてたけど、大きな壁になる時がきたんだなと。それが来年かなって思います。そのためにも大晦日、7度目の三冠王座返り咲きを果たし、全日本プロレスのエースとして2024年をスタートさせます」
(おわり)

取材・文/大楽聡詞
写真提供/全日本プロレス

関連記事