元NPB戦士が再び目指す夢舞台 兵庫ブレイバーズ蔵本治孝4年ぶりの現役は地元からのリスタート

2月1日に兵庫ブレイバーズに入団した蔵本治孝投手。2018年から22年まで東京ヤクルトスワローズでプレーした元NPB選手である。
同年ヤクルト退団時に現役引退を表明したが、今年4年ぶりの現役復帰を果たした。
一度は別れを告げた野球への縁がどのように繋がり、情熱が再燃したのか。その突然の出来事とともに、開幕を間近に控える現在についてまで話を伺った。
(写真:球団提供、以降一部敬称略)
「ある日突然」湧いた現役への熱
2月にブレイバーズの一員となった蔵本。23年から昨年までの2年間野球スクールで指導者として活動しており、今回は”現役復帰”となる。
スワローズを退団後の22年は地元兵庫へと戻り、1年間野球とは離れた仕事をしていた。
休日に少年野球の臨時コーチを務め野球との縁が徐々に戻り始めた中、その活動を知っていたある人が蔵本にオファーを送った。
「ピエンサベースボールアカデミーの藤本博史代表から『一緒にやらないか』と話をいただきました」
同アカデミーを運営する藤本代表はかつてマリナーズ傘下のマイナーリーグや、オリックス・ブルーウェーブ(現:バファローズ)でもプレー。イチロー氏の自主トレも20年近くサポートしてきた人物でもある。
23年に蔵本はアカデミーのコーチへと転職。元NPB選手としての経験を活かし、明るいキャラクターで子どもたちともすぐ打ち解けていたが、昨年5月に心境に変化が起きた。
「ある日の夜寝る前ですよ。頭にパッと出てきたんですよ。もう一回やろうと」
スワローズを退団した際には現役引退を発表していたことから、「あの時はやりきったという感情もありました」という。
それでも、「きっと自分の心の奥底でまだ野球への気持ちが残っていたのだと思います」と眠っていた情熱が突如として蘇った。
「本当に突然だったので。次の日親に伝えたら『やっとやる気になった?』って言っていました(笑)」
翌シーズンからのプレーを見据えて、すぐにトレーニングを開始した蔵本。ピエンサベースボールアカデミー退職の旨を昨年10月に藤本代表へと伝えた。
「藤本さんは『すごい気持ちわかるよ』と応援してくれました。チームを決める時もいろいろな方に連絡してくれましたので本当に感謝してます」
「地元で勝負したい」とブレイバーズ入団へ
蔵本は自身の伝手や藤本代表の力を借りながらチーム探しに着手した。最終的にブレイバーズに入団した決め手を語った。
「復帰するにあたって他のチームも候補に挙がったのですが、地元兵庫で勝負したい気持ちがあったのでそこが一番でしたね」
2月1日に正式に入団が発表され、21年以来4年ぶりの現役復帰を果たした。早速チームへと合流した時の第一印象を聞いた。
「みんな若いなと。一気に平均年齢上げちゃいましたね(笑)」。
ブレイバーズは20代前半の選手中心で構成されており、この5月に30歳になる蔵本でもそう感じるほどだった。
後輩選手たちが目指しているNPBの舞台を経験していることから、早速質問攻めにあっているという。
「周りからも『コーチみたいですね』って言われるんですけど、『選手です!』と返してます(笑)」
その言葉通り、今は選手一本で再び白球を投げる日々を送っている。
というのも、独立リーグではアルバイトをしながら生計を立てる選手もいるが、蔵本はそれを敢えてしない選択をした。
「ブレイバーズの選手一本で行かせてもらおうと。どちらもやると中途半端になると思ったので、ここでやれるだけやりたい。
しっかり体も作り直さないといけないですし、他のことをやろうとすると体も厳しくなるので選手のみでやっていこうと決めました」

指導者を経て「前より変化球のキレが増している」要因
選手としては4年離れていることから、ブランクはあったのか。実際に投げ始めてみた時にはこう感じたという。
「引退後も指導で体を動かしたりしていたので、コントロールはまとまっていると感じました。
一度指導者になって戻る時には気づきがあって、今の自分に活かして変化球を投げてみたらヤクルト時代よりもキレが増していました。チームメイトとも『昔より曲がってるんちゃうかな』と話していて(笑)。
球速は復帰前(150km/h超え)の方が出ていたと感じることがありますが、ブランクあってこの寒い時期にしては出てる方だと思います。今は140km/h半ばくらい。暖かくなればもっと出せると思います」
アカデミーで指導していた時に得た気づき。それが今後のパフォーマンスアップにつながると感じている部分だった。
「引退して時間ができて、さらに指導に携わることになってやはり情報量は必要だなと感じました。(指導対象の)小学生の子でもタブレットを持っていて、『コーチこういうのどう?』って聞いてくる生徒もいましたから。
そこで自分でも得た情報が今に活きていると感じています。もっと楽に投げる体の使い方を調べて、現役の時に使えてなかった部分を使えたりもしています」

髙津臣吾監督と交換した背番号「22」
蔵本はブレイバーズで背番号「22」を着用する。大学からヤクルト時代にかけて付けていた番号を再び背負うことになった。
実はそのヤクルト時代に背番号にまつわるエピソードがある。髙津臣吾監督が20年に一軍監督へ就任したことに伴い、現役時代に長らく付けていた「22」への変更を決めた。
そのため、髙津監督が当時背負っていた「99」と蔵本の「22」を交換することとなった。
「2人で会話させていただいた特別な時間でした。あの時の空間は今でも覚えてます。うん、すごい覚えていますね。
『俺が(22を)つけるよ』とおっしゃっていたので『それは監督の番号だと思ってます』と。”ヤクルトの22=高津さん”という印象をずっと持っていますから。
僕は入団発表の時に『22番だよ』と言われて知ったのですが、(岡山商科)大学の時に22でやっていたので、その時の印象を持ってくれてたのもあったのだと思います。周りの方も『22なんて大丈夫か?』って言われましたが(笑)」
夢を目指す選手に伝えた数々の助言
NPBを経験して新たに挑戦する独立リーグの舞台。日本最高峰の舞台を経験していることから、リーグとしての違いを問うてみた。
「断然違いますね」と早くも環境そして選手の双方において感じたことを語った。
「グラウンドも毎日同じ場所ではないし、雨が降れば中止になってしまいます。ただ、その中で工夫してやってるので勉強になります」
NPBでプレーしていた時は毎日真っ白な新球で投げていたが、独立リーグでは真っ黒なボールでほつれた糸をテープで補修しながら使っている。そんなところから思い出すことがあった。
「僕も大学の時はそうでしたが、NPBに入って常に綺麗な新球でキャッチボールしてたんですけども、独立に来てボールの差は感じましたね。思い出しました。初心に帰れたような気がします」
また、上述で「コーチみたいですね」と言われている通り、蔵本はすでに多くの若い選手たちに助言を送っている。
ただ、そこには愛ある厳しさも含まれていた。それは目指している世界がとてつもなく厳しい世界というのを熟知しているからだった。
「力の差を感じるのは事実です。NPBという目標を意識してるならもっと夢に向かってやってほしいなと。一喜一憂している選手もいますし、まだまだ周りに流されてしまいます。
NPBの球団に指名されない理由というのはあるわけですから、気持ちだけはNPBの選手に負けないものを持ってほしい。
彼らに追いつくんじゃなく、”上に行くんだ”という気持ちでやらなければいけないと常に言ってます」

ここで「ちょうどこの間言ったのですが」と、実際に以前耳にしたことを交えて以下のように続けた。
「スカウトの人はどこで見てるか、どこで情報を得るかも分からないから『常に一生懸命やった方がいい』と言いました。『今日はスカウトが来てるから』と言うのですが、『違う。毎日その姿勢でやりなさい』と。
僕も一度引退した時にNPBや学校のスカウトから『どこで見てるかは(選手たちに)分からないよ』と聞きました。
試合が始まったら私服の人がスカウトかもしれないので、『球場来てユニフォーム着ている限りは一つも抜けないよ』と話しました」
昨年2位から「優勝を目指すピースになりたい」
開幕は4月5日と、1ヶ月を切った。チームの指揮を執る山川和大(ともひろ)監督からも「もう投げるだけ投げてフル回転でいってくれと言われます」と早くも大きな戦力として期待を寄せられている。
ただ、自身は冷静に己と向き合いながら着々と準備していると語った。
「開幕に合わせるのも大事なんですけども、飛ばし過ぎてけがしてもよくないので、ブランクが空いている中で体と相談しながら調整してますね。監督にも都度状態の報告はしています」

チームは昨年リーグ2位の成績をマークした。若さあふれる勢いと共に、実力も確実についている。復帰1年目となるシーズンに向けて自身そしてチームへの想いを語って締めた。
「チームではお互いに言い合える関係ですし、みんな(昨年優勝した)”打倒堺(シュライクス)!と言ってます。僕もその中で優勝を目指すピースになりたいです。山川監督を胴上げできるように頑張るだけです。
勝たないと注目もされないし評価もされないと思うので、やるからには投げる試合全て勝ちたいし、常に結果を出さないといけない。
自分がNPBに戻ることが目標にありますが、今一緒にプレーしている選手がNPBへと進めるよう僕も経験をどんどん伝えていきたいと思っています」
2025年4月、故郷の兵庫から再び勝負師としてのシーズンが幕を開けようとしている。
(取材 / 文:白石怜平 )