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横浜翠陵高野球部応援団長・酒井悠利、最高の仲間に声援を送った夏

 日本高等学校野球連盟に加盟する3,768校のうち、夏の甲子園に出場できる学校は49校。3,768校のうち半数は都道府県大会の初戦で夏を終える。甲子園の常連校、ドラフト候補を擁する学校に注目が集まりがちだが、どの学校にもたくさんのストーリーがある。創部以来最多の人数で2025年の夏の神奈川大会を戦った横浜翠陵高にも、見逃せないストーリーがあった。

酒井を、ベンチに入れるべきか……

 指揮官は、ギリギリまで悩んでいた。夏の高校野球、神奈川大会のベンチ入り選手数は20人。昨年までなら、そんなに悩むことはなかった。悩むほど人数がいなかったからだ。3年生を全員ベンチに入れた上で、1、2年生のレギュラーを加え、さらには秋以降に向けてベンチの雰囲気を経験させたい1、2年生にも数人、背番号を与えることができた。
 今年の夏は、そういうわけにはいかなかった。5月31日のメンバー登録を前に、横浜翠陵高硬式野球部・田中慎哉監督は深いため息をついた。
「酒井を、ベンチに入れるべきだろうか……」
 田中監督は現役時代、東海大山形高-東海大で内野手としてプレーし、高校2年生の春にはセンバツに出場し、ベスト8進出を果たしている。大学を卒業後、神奈川県の臨時的任用職員などを経て2014年4月より保健体育科教員として横浜翠陵高へ赴任。野球部コーチを経て2016年秋からは監督としてチームを率いている。
 横浜翠陵高は1986年に「横浜国際女学院翠陵高等学校」として開校した。2011年に男女共学化され現在の校名に変更。硬式野球部もその年に創部された。2015、2020、2024年の県大会3回戦進出が夏の最高成績だ(2020年は神奈川県独自大会)。昨夏は創部以来初めて複数勝利(2勝)を挙げた。強豪ひしめく神奈川において、着々と力をつけているチームだ。
 今春、22人の1年生が入部してきた。3学年で計49人、野球部創部以来最多の部員数で2025年夏の大会を迎えることになった。

野球部のムードメーカー的存在だった内野手・酒井悠利

本格的に野球を始めたのは高校から

 酒井悠利(3年)が本格的に野球を始めたのは、高校に進んでからだった。もともと野球が好きだった酒井は、小学生の頃から放課後、友人たちとよく野球を楽しんでいた。横浜翠陵中学校では軟式野球部に入部。しかし、酒井が在学した3年間、野球部には選手が9人そろわなかった。酒井は対外試合を経験することなく中学3年間の部活動を終えた。
 高校へ進み、野球部の監督は現役時代に甲子園に出場経験のある人で、練習も厳しいと聞いた。自分の実力で、練習についていけるだろうか? 悩んだが、それでも、好きな野球に思い切り打ち込んでみたいという思いが勝った。酒井は野球部への入部を決意する。
 厳しい練習でも、敗色濃厚の試合でも、明るく大きな声を出してチームを盛り上げた。いつしか、酒井は野球部にとって欠かせない存在になった。春と秋の大会は25人がベンチ入りできるため、酒井もベンチに入り、試合前には円陣の中央に入って一発ギャクでチームメイトをリラックスさせた。2年生の8月には練習試合で初めてヒットも打った。
 二塁手の控えとして頑張ってきたが、他の選手との実力差は本人も分かっている。夏を前に1、2年生も力をつけてきた。自分の実力は、20人に入れるか入れないか、ギリギリのところだろう。それでも、ここまで一緒に頑張ってきた3年生11人、みんなで7月7日の神奈川大会開会式、横浜スタジアムの中を行進したかった。

試合前、円陣の真ん中でチームを盛り上げるのも春までは酒井の役割だった

夏の大会では自分の持ち味を発揮しよう

 指揮官は悩みながらも、腹を決めた。
 昨夏は創部以来初めて夏の大会で複数勝利を挙げた。部員数も増え、選手たちの意識は上がり『ベスト16』を今夏の目標に掲げている。
「一発勝負、負けたら終わりのトーナメントで、一日でも長く野球を続けるため、一日でも長く残れる布陣を取るということに決めました」
 6月6日、夏のベンチ入りメンバーが発表された。「酒井悠利」の名前が呼ばれることはなかった。酒井はその日のことをこう振り返る。
「悔しかったです。3年生みんなでメンバーに入って背番号を背負って、開会式、一緒にハマスタで行進して長い夏にしたかったです……」
 それでも野球が好きで、野球部の仲間が大好きだという気持ちは変わらない。元気のよさが自分の持ち味だ。夏の大会では自分の持ち味を発揮しよう。高校1年生の夏、同じ神奈川の慶応高が全国制覇したときの大応援を思い出した。
「どのチームよりも応援の力で負けない応援団を作ろうと思います」
 酒井は野球ノートにそう書き込んで田中監督に提出した。グラウンドの選手たちに声援を送る応援団をまとめる応援団長に立候補した。
 野球部が実力をつけてきたことから、公式戦には一般生も応援に来てくれることが多くなっていた。チームが掲げるスローガンは「神奈川で一番応援されるチーム」だ。
「去年の夏の大会は3回戦が日曜日だったので一般生がたくさん応援に来てくれたんです。一般生も応援しやすいようにと思って、応援歌の歌詞をちょっと少なめにして、一般生が乗りやすい曲を選んだり、合いの手を多くするなど工夫しました」

3回戦で敗退。スタンドにあいさつするベンチ入りメンバー

強豪・日大藤沢に敗れ、夏が終わった

 県立大磯高との初戦は同点の4回、相手の失策などで3点を勝ち越した。7回、9回にはいずれも3番・青山隼也(3年)の適時打で1点ずつを追加。エース・三浦龍大(3年)が9回5安打2失点と好投し、初戦を突破した。
 酒井は試合前、シートノックのサポートのためグラウンドに降り、試合が始まる直前にスタンドへ上がり、応援のメガフォンを手に声を張り上げた。「うまくいかない部分もちょっとありましたけれど、スムーズに応援できた。本番までにうまく合わせられたと思います」と胸を張る。
 3回戦の相手は、甲子園春夏計4度出場の強豪・日大藤沢高だ。左打者がスタメンに7人並ぶ相手に対し、横浜翠陵は技巧派左腕・荒山悠介(3年)を先発に起用したが、荒山は初回から日大藤沢打線につかまってしまう。4本の安打に四球、失策が絡み、いきなり4失点。エースの三浦がマウンドへ上がり試合を落ち着かせたが、その三浦も3回に1点、5回に2点を失った。打線も日大藤沢高の継投の前に3安打無得点。「愛してる!」のかけ声でおなじみの『チャンス紅陵』が流れる中、最後の打者が打ち上げた打球は相手二塁手のグラブに収まった。7回コールドで試合は終わった。
 ベンチの選手もスタンドの部員も涙、涙。酒井は涙をこらえながら相手の応援団とエールを交換し、応援道具一式を片付けたのち、取材に応じてくれた。
「みんな、かっこいいプレーを見せてくれました。同期には中学時代、硬式のクラブチームでやっていた人が多くて、全員僕よりうまかった。でも、僕が下手でもバカにしたりしないで、僕がうまくなるように支えてくれました。選手11人とマネージャー2人の13人、大好きです。最高の仲間と戦うことができてよかったです」

試合後、涙をこらえながら相手応援団にエールを送る

「酒井の声は、もちろん聞こえています」

 応援団長の声は、グラウンドで戦う選手たちに届いていたのだろうか?
「もちろん聞こえていますよ。あいつの声は大きいから、ブルペンまで聞こえてくることもあるぐらいです」と答えたのは、主将で4番打者の重冨遥士朗(3年)だ。
「酒井はチームのムードメーカー。学校の行事でも盛り上げ隊長をやってくれるんです。応援でも最後までチームのために声をからしてくれた。酒井をベスト16に連れて行きたかった……。それができなくて申し訳ないです」
 田中監督は「入って来たときは、酒井は誰よりも走れなくて、誰よりも投げられなくて、誰よりも捕れなかった。3年間もつだろうかと心配でした。それでも、野球が大好きで、何よりも仲間が声をかけてくれるから、踏ん張りながら2年半、やり切ってくれました」と酒井の頑張りをたたえる。
 酒井の父・雅弘さんは「ベンチを外れた悔しさがある中、応援団長を志願してチームのために最後までやり遂げた。我が子ながらすごいなと、尊敬します」と息子の成長を喜ぶ。
 部活動はこれで引退。気持ちを切り替え、これまで野球に注いできた情熱を受験勉強に注ぐことになる。文系ながら数学も得意な酒井は、私大の経済学部を志望している。大学で野球を続けるかどうかは、まだ決めていない。
「将来のことはまだ深く考えていないんですけど、いつか社会に出たときには、人のために働きたいなと思っています」
 明るく、元気に、人のために尽くす応援団長のこれからを見守っていきたい。
(取材・文/小川誠志)

夏の戦いを終え、野球部員、保護者、指導者で記念撮影

北海道札幌市出身。スポーツライター。日刊スポーツ出版社などを経て2018年よりフリーランスに。

プロフィール

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