「第30回 全国身体障害者野球大会」3年ぶり出場の千葉ドリームスター 昨秋のリベンジと日本のエースへの”挑戦状”
5月15日〜16日、神戸市のほっともっとフィールド神戸などで「第30回 全国身体障害者野球大会」(以下、選抜大会)が開催された。
昨年、関東甲信越大会を制覇した「千葉ドリームスター」は3年ぶりに神戸の地に立ち、選抜大会へ出場。この2日間の熱闘を追った。
(取材 / 文:白石怜平)
千葉県唯一の身体障害者野球チーム
千葉ドリームスターは2011年に本格始動。同県出身の巨人・小笠原道大2軍打撃コーチが現役時代の08年オフ、身体障害者野球チーム「神戸コスモス」の練習を訪れたことがきっかけに誕生した。
訪問後に地元である千葉県に身体障害者野球チームがあるか調べたところ、当時は存在しなかった。そのため、少年野球大会の開催に加えて更なる社会貢献活動のためにチームを結成した。
チーム名も小笠原コーチが“夢を持って野球を楽しもう”という想いを込め命名。居を構える市川市の名を冠し、「市川ドリームスター」が誕生した。今も”GM”という肩書きでチームの活動を見守っている。
20年からは、千葉県全域で更なる地域貢献を強める想いから「千葉ドリームスター」と改称して現在に至る。
チームには24名の選手が在籍。先天性の障害を持つ選手や事故などによる後天性の障害を持つ選手などさまざま。
年代も障害の度合いも異なる選手が創り出すのはチームの”活気”。練習や試合、グラウンドから離れても冗談や叱咤などを交わし合い、常に選手たちの声で溢れている。
選手たちも入団する際、「明るい雰囲気に惹かれた」といった理由からドリームスターを選ぶなど、その活気は代名詞である。
野球の特徴も長所を活かした”明るく・楽しく”。ベンチから大きな声で盛り上げ、たちまち勢い付けば連打での大量点やビハインドからの劇的な逆転勝利を掴み取る。
チームは14年に「NPO法人日本身体障害者野球連盟」へ加盟し、同年に普及枠(招待枠)で選抜大会に初出場し初勝利も挙げた。17年には関東甲信越大会を地元市川市で初開催し、この年から同大会は3年連続準優勝を果たすなど年々力をつけてきた。
昨年は発足10周年の節目に同大会を初制覇し、秋の選手権大会にも初めて出場を果たした。
春の選抜大会は14年に連盟加盟以降、16年を除き6回出場。20年はコロナ禍で大会が中止、昨年は緊急事態宣言中の状況を鑑みて断念したため、3年ぶりの参加となった。
初戦は昨秋選手権の再戦に
ドリームスターの初戦は仙台福祉メイツとの試合、昨年の選手権以来の対戦となった。
前回は最終回に追いつき1−1で規定時間の100分を迎えたが、じゃんけんによるタイブレークで惜しくも敗れていた。”リベンジマッチ”とも言えるこの試合、ナインは昨年の悔しさを胸に神戸へ乗り込んだ。
試合は10時半にプレーボール、G7スタジアム神戸で開始を告げるサイレンが球場内に響いた。
1回表はドリームスターの攻撃から始まり、1番の土屋来夢が打席に立つ。チーム最年少で副主将を務める24歳はリードオフマンとして打線を鼓舞。
この試合も切り込み隊長ぶりを発揮。フルカウントまで粘り、8球目を振り抜くと打球は右翼の頭上を超える3塁打を放ち初回からチームを勢いづけた。
この回惜しくも点は取れなかったものの、1点が重かった前回と違う「今年はやれるぞ」という雰囲気がベンチを包む。先発マウンドに上がった城武尊(たける)が初回を0点に抑えると、ドリームスターの打線がついに猛攻を見せる。
先頭の6番・”義足の野球人”石井修が巧みなバットコントロールで左前打で出塁すると、2死から9番・川西努から四球を挟み、3番・城がライト方向への2塁打を打つなど4連打で一気に5点を奪った。
裏の守りでは1点を返されるが、4回にも打線が勢いに乗りさらに5点を追加。10−1と大量リードしたその裏にはチーム創立時から在籍している三浦敏朗が公式戦初登板を果たす。
四球などで走者を出すも1点に抑え、試合時間の規定100分を迎えたため試合終了。10−2でドリームスターが昨年のリベンジを果たし初戦を突破した。
攻守で特に献身的な働きをしたのは、打順では2番、捕手ではフルイニング出場した小林浩紀(こうき)。生まれつき左手指が短い先天性の障害を持つ小林は、54歳ながらチームNo1とも言える身体能力を持つ。
高校時代は東京・城西高校サッカー部の主力として、元日本代表の北澤豪擁する修徳高校とも対戦するなど、大学や実業団からいくつも誘いを受けていた選手。
野球では捕手に加え一塁以外の内野全ポジションを守り、打撃でも右打者として広角に打ち分けチームで首位打者を争う。
現在は野球以外にも障害者ゴルフの選手としても国内の複数大会で優勝するなど、年齢を感じさせないプレー、そして明るいキャラクターでチームの兄貴分として活力の源となっている。
実はこの2週間ほど前、練習試合中に負傷し右ふくらはぎの肉離れを発症していた。出場が危ぶまれる中、首脳陣は動きを制限させることを条件に本人とも話し合い起用を決断。
身体障害者野球のルールでは、捕手は投手からの投球を適宜身体に触れれば捕球とみなすため、事前に投手・内野手がカバーすることを確認して試合に臨んだ。
小林は期待に応え、城の投球を体を張って受けるとともに打撃でも2安打2打点と勝利に大きく貢献した。
強豪岡山との2戦目、序盤は接戦に
初戦を勝ち抜いたドリームスターは翌16日、ほっともっとフィールド神戸で2戦目を迎えた。
対戦相手は岡山桃太郎。”もう一つのWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)”と呼ばれる「世界身体障害者野球大会」で日本代表のエースでもある早嶋健太投手を擁し、昨秋の選手権優勝・本大会でも準優勝の強豪である。
ただ、ドリームスターの野球である”明るく・楽しく”は変わらない。普段通りの野球をやろうと、”挑戦状”を持って乗り込んだ。
この日に限り監督代行を務めた土屋純一ヘッドコーチ(土屋来夢選手の父)がベンチそして三塁コーチャーズボックスから大きなジェスチャーで鼓舞する。
2戦目も城が先発マウンドに。チーム全員が以前から声を揃えて「この大会は城と心中」と話していた通り、背番号18の右腕に全てを託した。
広島県出身の今年25歳は、両腕に1本ずつある橈(とう)骨が生まれつき左腕だけなく、左手の親指と人差し指がない障害がある選手。
小・中学と健常者チームに在籍し、高校では地元の身体障害者野球チーム「広島アローズ」に入団。広島国際大時代には軟式野球部で主将を務めるなど高いレベルでのプレーを続けてきた。
また、上述の「世界身体障害者野球大会」で日の丸を背負い、18年には世界一に貢献するなど身体障害者野球を代表する選手の1人である。
20年に上京するとともにドリームスターに入団。現在も健常者のチームに所属し、毎週実戦経験を積むなどたゆまぬ努力を続けている。
2試合目は9時にプレーボール。1回表、マウンドに上がった城は先頭で打席に立った早嶋といきなり直接対決となった。
両者は日本代表で同じユニフォームを着ただけでなく、城がアローズ在籍時は同じ中国・四国地区でしのぎを削ってきた。ただ、ここでは力んだのか2球目が早嶋に当たり死球に。
その後2死1・2塁でビッグプレーが飛び出す。5番・萩原の打球がセンター方向にライナーで飛ぶと、中堅を守る藤田卓がスライディングキャッチ。
三浦と共に初期メンバーの藤田は右腕一本でプレーし、投手を中心に内外野も守れるユーティリティプレイヤー。背番号1が守りでチームのピンチを救った。
2回まで0−0。両投手が1安打に抑え、投手戦の様相が見えた中で試合が3回に動く。城が先頭の早嶋から四死球を与え1・2塁のピンチになると岡山の3番・井戸が右前に運び2点を失う。その後も制球が乱れ1被安打ながらこの回5点のビハインドを背負った。
土屋ヘッドの声掛けで円陣が組まれ、切り替えて攻撃に。打撃陣は焦って手を出したいところを堪えながら球を見極め、連続四死球で1死1・2塁のチャンスをつくるもあと一本が出ず本塁が遠のく。
4回の城は立ち直り、3者凡退の投球で味方の逆転を信じた。試合が既に90分を超えていたため4回裏が最後の攻撃に。
ただ、この回も2死ながら1・2塁のチャンスを再度つくるも後続が倒れ無得点。0−5で試合終了となった。
土屋ヘッドは、「相手もエースが投げてくれましたが連打は難しいので、四球や失策を誘いたいと考えていました。やはり得点できるチャンスが少なかったですね」と振り返った。
ただ、続けて「先行して守りで凌ぐと考えていたので、序盤は理想の展開でスタートできました。守備力がさらに向上していて、全国のチームとも遜色はないと感じました」と収穫も語った。
上位進出とはならなかったドリームスター。しかし、次の戦いに向けた準備はその翌々週から始まっている。8月には関東甲信越大会が東京で開催され、この秋の選手権そして来年の選抜大会の出場権がかかっている。
土屋ヘッドは今後の課題については「打撃力に尽きます」とはっきり述べた。
「私が身体障害者野球に携わってから、特に投手のレベルが格段に上がっています。そういった投手を打つには、健常者チームと練習試合を組んでレベルの高い投手の生きた球を見るしかないです」
と話し、早くも健常者チームとの練習試合を組み、実戦での練習も行なっている。来年も神戸の舞台に立ちこの悔しさを晴らすべく、この夏がまた一つの山場となる。
そして最後の注目カードは決勝戦、昨秋の選手権決勝の”再戦”となった。
(つづく)