生きなおしのピッチ――小川大貴、「いじめ後遺症」と歩んだひとりのJリーガー

(※本記事にはいじめに関する詳細な内容が含まれます/敬称略)
右サイドでボールを受けた時、小川大貴の脳裏には幾つものシナリオが浮かんでいた。いつも通りの光景だった。DFが詰めてくる。その後ろには広大なスペースが口を開けている。しかし思ったよりも寄せが早い。
足音が聞こえる。フォローに来るチームメイトのものだ。
スピードには自信がある。だが、この間合いで、自分のドリブルで抜けるイメージは湧かなかった。むしろ、味方の走りを無駄にしない為にも、パスを出すべきだろうか——そんな計算が、瞬時に頭を駆け巡る。
いつもであれば味方に繋ぐシーン。それが「安全」で「正しい」判断だった。28年間の人生で身に染み付いた、無意識の選択。
しかし、この時は違った。心の奥で何かが囁いた。
「いってやれ」
思い切って仕掛けた。DFを抜いた。前に、まるで海のように広々とした光景が広がった。
「あれ、自分、思ったより行けるじゃないか。こんなことができるのか」
その瞬間、28年間封じ込めていた何かが解放された。それは自分という存在への、初めての確信だった。しかし同時に、別の感情も湧き上がってくる。
ああ、あの時のいじめとの闘いは、まだ終わっていないのか——。
(全2回/前編)
プロの舞台で輝く光、潜むいじめの深い影
小川大貴。幼稚園からサッカーを始め、小学校の途中からジュビロの下部組織に所属。明治大学を経て、ジュビロ磐田で11年間という長きにわたって活躍し、現在は松本山雅FCでプレーしている。絵に描いたようなサッカーエリートの経歴である。
しかし、その華々しい経歴の陰には、人知れぬ苦しみの時期があった。小学生の頃に受けた、壮絶ないじめ体験だ。
Jリーガーと”いじめられっ子”。この二つの言葉を並べると、多くの人にとっては違和感があるかもしれない。スポーツエリートといじめ被害者——そのイメージはあまりにもかけ離れているからだ。
しかし小川は今もなお、いじめという見えない鎖を引きずり続けている。いじめの後遺症——それは、どんなにプロとして活躍し、周囲から祝福される人生を歩んでも、本人の心に深い影を落とし続ける。Jリーガーとして脚光を浴びる舞台の上で、なお消えることのない心の傷とは一体何なのか。

秘密基地が消えた日――8歳の少年が知った「排除」
始まりには何の予兆もなかった。
小学校2年生の昼休み。いつものように皆で作った秘密基地に走って行った。しかし、そこには誰もいなかった。いくら待っても誰も来ない。「あれ、今日は来ないのかな」——そんな疑問を抱きながら、一人で帰路についた。
それが1週間続いた。
1週間目のある日、小川は友達をこっそり追いかけてみた。すると、反対方向に新しい基地ができていた。そこには、いつものメンバーが全員揃っていた。
「なんだ、場所変えたなら言ってよ!」
小川が声をかけると、一斉に振り向いた皆の表情——それは今も鮮明に記憶に刻まれている。凍り付いたような沈黙。そして、かつての友人のひとりが放った言葉。
「なんでバレてるんだよ」
責めるような視線。小川は、その瞬間に悟った。自分は、意図的に排除されているのだと。
画鋲を「ラッキー」と思った少年
理由は分からなかった。「何か、気づかないで悪いことをしてしまったのかな」——小川はそう自分を責めた。当時にしては髪が長く、華奢で中性的な雰囲気だったことが原因だったのかもしれない。
ただ確実に言えることは、いじめが日を追うごとに悪化していったということだった。
瞬間接着剤で全ての指をくっつけられ、一生懸命にハサミで切り分けた図工の時間。物がなくなる、席に何か仕掛けられるのは日常茶飯事だった。椅子に画鋲が仕掛けられていても、『今日は画鋲2個だけか、ラッキーだな』とすら思うようになっていた。
ベランダに締め出され、エアガンの標的にされたこともあった。
小川の日常は、もはやサバイバルそのものだった。しかし不思議なことに、彼の心に芽生えたのは、いじめを行う子たちへの怒りではなかった。
顔色を見抜く――8歳で順応した「生き方」
「常に考えていたのは、いじめる側の機嫌を損ねてはいけない、ということでした」
どうすれば「いじめたい」という感情を起こさせずに済むのか——小川の思考は、常にその一点に集中していた。
自分の感情や意思は、全て後回しだった。自分が何をしたいか、何を感じているかは、もはやどうでもよかった。とにかくいじめられないために、ボスが怒らないために、グループやクラスの雰囲気を壊さないような行動を取ろうと、小川は常に心を砕いていた。
ただただ、相手の顔色を、感情を気にする。そんな習慣が、幼い心に深く刻まれていった。
行き止まりの聖域で――ふたつの自分を生きる少年
地獄のような毎日の中で、唯一の救いがあった。少年団でのサッカーだった。
そこには幼稚園からの仲間も多く、いじめのメンバーがいないコミュニティが存在していた。皆、特別上手いわけでも強いわけでもない。しかし「みんなで頑張ろう」という、純粋な気持ちに満ちたチームだった。
家が皆近所にあった。田舎によくある行き止まりの道路——そこが彼らの集合場所だった。車も入ってこない奥まった場所は、いじめっ子たちが来ることもない、完全に隔離された聖域だった。
そこでは、サッカーはもちろん、野球、ゲーム…皆が思い思いに楽しんでいた。
何より大切だったのは、顔色をうかがう必要がないということだった。
「今度は野球しようよ!」「いや、サッカーがいい!」
学校では一言も発しない小川が、ここでは声を上げることができた。仲間たちは特別な配慮をしてくれるわけではない。ただ「遊ぼうよ」と変わらず声をかけてくれる。その自然体の優しさが、何より救いだった。
学校では「顔色を窺う小川」、サッカーでは「わんぱくな小川」——ふたつの人格が存在していた。小川は、その二つの自分でバランスを取りながら、日々を生き抜いていた。

零れ落ちそうになった命、沁みついた”ふがいない自分”
それでも、限界は来る。
5年生になったある日の朝。学校に向かうバスの中で、小川は久しぶりに座席に座った。
普段は許されていなかった。しかし、その頃はいじめの波が少し落ち着いていた時期だった。「もう座っていいかな」と思ったのだ。
しかし、それが彼らの目に留まった。
気がつくと、後ろから頭を掴まれていた。前に振り回される。前の座席に付いていた手すりに、顔面を強打した。
学校に着いた時には、目の周りが腫れ上がり、鼻と同じ高さになるほどパンパンに膨れていた。片方の目は完全に開かなくなっていた。
それはクリスマス間近の日だった。その日の授業は「サンタさんに手紙を書いて、願い事をする」というものだった。
小さな紙の前で、小川の脳裏に浮かんだのは心配そうな父親の顔だった。家族に心配をかけてしまうふがいなさ。クリスマスという特別な時期に、目も開けられない自分への情けなさ。
紙の上に、ただただ涙がこぼれ落ちた。
自宅の階段から飛び降りたのは、この出来事の少し後のことだった。幸い、大きなけがにはならなかった。ただ、痛みだけが現実の重さを教えてくれた。
サッカーがくれた反抗心――止んだいじめ、新しい日々の予兆
いじめから小川を救ったのも、またサッカーだった。
小学校6年生の時、ACNジュビロ沼津(現アスルクラロ沼津)に呼ばれるようになった。これまでとは比較にならない強度のトレーニングを重ね、小川の体は見る見るうちに成長していった。
その変化が、再びいじめのボスの目に留まった。
「調子に乗っている」
そう言われて呼び出された時、小川の心に初めて反抗心が芽生えた。
コツコツと続けてきたサッカー、そこで感じていた確かな成長。
「このままじゃいけない。この状況を打開したい」──瞬間的にそう思った小川は、初めて立ち向かった。
けがもした。しかし、立ち向かった。
その日から、いじめは止んだ。
研ぎ澄まされた感度――街中に残る「いじめ後遺症」の爪痕
中学から正式にACNジュビロ沼津に入った小川は、有望株として注目を集めるようになった。期待され、注目される存在──表面的には順風満帆な歩みに見えた。しかし、内面は全く異なっていた。
大学に入るまで、小川は街中に出ることができなかった。人混みで顔を上げると誰かと目が合う。周りの仕草が自分への陰口に見えた。数百メートル歩くだけで強烈なストレスを感じていた。人の表情への感度も、異常なほど研ぎ澄まされていた。目の動き、雰囲気、姿勢──さまざまな情報から、相手の感情が否応なく流れ込んでくるようになっていた。

「俺が、俺が」と言えないJリーガー
プロになっても、その感覚は変わらなかった。
Jリーガーとなった小川に、飲食店や商業施設で声をかけてくれる人が増えた。ファンからの温かい声援──それは確かにありがたいことだった。しかし、どこか違和感が拭えなかった。
「本当はサッカー選手なんてすごくないんだ」──そんな感情が常に心の奥底にあった。その裏には、「いじめられていた自分がこんな扱いを受けていいのか」という、根深い自己肯定感の低さがあった。
その影響は、プレースタイルにも現れていた。
サッカー選手には「俺が、俺が」という自己主張が求められる。俺が点を決める、俺がアシストする、俺がドリブルで突破する──そんな「我」の強さこそが、トップレベルで戦う原動力となる。
しかし小川は、「誰かが決めてくれれば、自分でなくてもいい」「チームが勝てばそれでいい」と本心から思えてしまう。
一見すると美徳のようだが、その裏には「自分を第一優先に考えられない」という、幼い頃に身に付いた思考の癖があった。
サイドバックというポジションには合致していたが、同時に、彼の可能性を狭めることにもなった。
28歳の突破――解き放たれた輝きと、失われた可能性への後悔
冒頭のシーンに戻る。
小川の心に生まれたのは、28歳にして初めて味わう「自分はここまでやれるのか」という感情だった。それは一瞬の光明であり、長い間封印されていた自己効力感の芽生えでもあった。
しかし同時に、深い後悔も押し寄せてきた。
「もっと早くこれに気づいていれば」
自分が点を取る、自分が何かを成し遂げる──そうしたことが第一優先に来ないプレースタイル。「自分にはそんなことはできない」という思考の癖。自分に対する自己効力感の低さ。
それらにもっと早く気づいていれば、違うサッカー人生があったのかもしれない。いじめが、ひとりのサッカー選手の可能性を、知らず知らずのうちに狭めていた。

今なお続く「いじめの功罪」――盟友が語る光と影
その影響はピッチを離れても続いた。
相手の顔色や組織の状況を読み、「ふたつの自分」で生き抜いた学生時代──その原体験が、小川のチームでの立ち振る舞いを形作っていた。
いつしか小川は、自分の役割を探して気配りをする選手になっていた。時にはチームを盛り上げるベテランとして振る舞い、時には「演じる自分」で場を和ませる。新天地の松本山雅では「そんなに気を遣わなくていいですよ」と後輩に驚かれた。
大学時代にはルームメイトとして過ごし、ジュビロでも長年プレーを共にした盟友・山田大記は、小川をこう評する。
「大貴の洞察力はすごい。人の表情の機微も分かる。いじめを受けた経験によって培われたであろう能力が、チームの中でも活きている」
「いろんな人の表情がすごく見えている。僕がキャプテンをやっている時は、『あの選手がストレスを感じているんじゃないか』『こういうマネジメントなら、この選手は活きるんじゃないか』といったアドバイスを、すごくしてくれていた」
後遺症は「消える」ものではなく、「向き合い」「付き合い方を見つける」ものだと、小川は気づき始めていた。
しかし、必ずしも良い面だけではない。山田は続ける。
「そういう振る舞いしか、自信を持ってできなくなっているのかもしれない。ドシッと構えて『俺がリーダーだから言うことを聞け』と言ってもいい年齢。もしかしたら自己肯定感の低さからか『自分の実力では足りない』と思ってしまっているのかも」
刻まれた爪痕は、今もなお、見え隠れしている──。
見えない傷と共に生きる
小川は、いじめの経験を必ずしもネガティブには捉えていない。そうした性格になったことも、今となってはポジティブに受け止めている。思考の癖さえも、自分の伸びしろとして捉え直した。
チームの中で果たせる役割を見出すこともできている。
それでもなお、「いじめられる経験は必要でしたか?」と問われると、小川は迷いなく答える。
「いや、いらない経験です」
いじめ後遺症──一説によれば、被害経験者は一般に比してうつ病の発症リスクが約4倍、パニック障害では実に14倍にも上るという(W.Copeland,2017)。情緒に刻まれた、深く消えがたい傷の証左である。
34歳になった今も、小川は「いじめ後遺症」を受け入れ、向き合い続けている。

だからこそ開いた道――いじめ後遺症の先に
そんな彼が、ある夜、テレビで小児病棟のドキュメンタリーを見て涙を流した時、新たな人生の扉が静かに開かれることになる。
いじめ当事者として苦しんだ自分。そんな自分が今感じている幸せ。「こんなに幸せでいいのか。この想いを、誰かに注ぐことはできないのか」
過去の経験で培った人一倍の感受性と利他精神──それらが、子どもたちの「居場所づくり」への新たな挑戦へと彼を導いていく。
いじめの傷跡を抱えながら歩んできたひとりのJリーガーの、もうひとつの闘いが始まろうとしていた。
(後編へ続く)※9/6公開予定
(取材・文/沖サトシ)