市原ポニー「市原能満グラウンドは待ち時間のない野球チームを可能にする」
中学硬式野球の名門・市原ポニーベースボールクラブ(千葉)は、2015年完成の『市原能満グラウンド』という本拠地を持つ。土地探しから建設まで、全てを手作業で行った文字通りの自前球場。まさに市原の“フィールド・オブ・ドリームス”だ。

市原ポニーベースボールクラブ(以下市原ポニー)は、1991年に千葉県で創設された中学硬式野球チーム。本年度も全日本選抜中学硬式野球大会優勝、東日本コルト選手権3連覇、関東秋季大会優勝など、数々のタイトルを獲得している名門だ。
チーム創設当初は市原市内の『市原八幡グラウンド』(以下八幡グラウンド)を使用していた。しかし同所に消防施設建設の計画が立ち上がり、自前球場の建設プロジェクトが動き始めた。先頭に立った市原ポニー監督・那須勇元氏、そして『市原能満グラウンド』(以下能満グラウンド)1期生で現在はコーチを務める佐藤暖起氏に聞いた。

~市原能満グラウンドは天国のような練習環境
佐藤コーチは地元・市原市出身。小学生の時から実力を発揮、さらにレベルアップしたい思いから、「中学野球は市原ポニーの一択だった」と語る。
「選抜大会で知り合った他チームの選手達とも話し合い、『市原ポニーに行って勝とう』となりました。有力選手の多くが市原ポニーを選び、『日本一、そして世界一を目指そう』と必死に野球に取り組みました」
選手育成と結果の両方で実績を残している市原ポニーへの入団は、上達への最短距離と考えた。
「中学1-2年時は八幡グラウンドを使っていました。しっかりしていて、普通に野球をするには問題はありませんでした。でも能満グラウンドが出来上がった時には、『すごい』と素直に思いました」
八幡グラウンドは通常の野球グラウンドであり、「見方次第ですが、一面独立の河川敷グラウンドのような感じ」(佐藤コーチ)だった。
「能満グラウンドはメイン球場はもちろん、個別練習ができるサブ球場、そして雨が降っても使用できる打撃ケージやブルペンまで完備されていました。練習だけなら夜間も可能なので、野球を上手くなるには最高の環境です」
「中学生だったので、当時は『すごい』という感想だけ」と振り返る。しかし他チームの練習環境を知るに連れて、「本当に恵まれた環境で野球ができている」と感謝の念が溢れ出てきたという。
「天気が悪ければ練習できないチームがほとんどです。うちは工夫をすれば50人程度が一斉に打撃練習ができるスペースがあります。効率良く徹底的にできる環境を用意していただきました」
「表現は適切ではないかもしれないですが、『練習環境が地獄から天国になった』という感じ」と明言してくれた。

~土地探しから建設まで、DIYで造り上げた球場
「八幡グラウンドが使えなくなるので、何とかしないといけなかった…」と、那須監督は建設の経緯を教えてくれた。
「消防施設建設の話が出始め、大至急で動き始めました。約1年ほどで現在の場所を見つけ出し、地主さんと契約。そこからは私と建設関連の仕事をしている方の2人で、突貫工事で進めました」
2012年頃に消防施設建設の話が出始めた。翌13年の千葉県議会の一般質問で議題に上がり、14年3月に決定した。市原ポニーの保護者、OBが手分けして土地探しから開始。14年秋口に土地使用の契約締結、15年6月までの約半年をかけて能満グラウンドを造り上げた。
「1番のネックは土地探しでした。八幡グラウンドは車で5分走れば千葉市内で、立地に優れていました。市原市の南の方へ行けば土地はいくらでも余っており、場所も見つかりそうでした。しかし、それでは交通の便が悪く選手が集まりにくくなります」
「保護者、OBなど総動員して探しました。航空写真を見て、野球場にできそうな場所へ手当たり次第に連絡しました。平地、もしくは原っぱのような場所です。山の場合だと、まず平地にするのに莫大なお金がかかります(笑)」
「『広い土地が空いている』と保護者が教えてくれたのが、今のメイン球場半分とサブグラウンドあたり。あとは法務局に行って土地の保有者を調べました。30筆ほどあったので、1件ずつ回ってお願いしました。14年9月くらいに契約でき、現在のまとまった土地が決まりました」
土地が決まった後は、業者に頼まない“DIY”方式で建設に取り掛かった。「保護者の中に建設関係の仕事の方がいて、手伝ってくれたのが本当に助かりました」と振り返る。
「業者に頼めば、お金がいくらかかるかわかりません。保護者の方にユンボなどは運転してもらい、グラウンドをならしていただきました。そのほかは2人で協力、月曜から金曜は球場造りに明け暮れ、週末は練習や試合という日々でした」
「メイン球場の右翼手付近から、食堂、駐車場のあたりは竹藪でした。僕がそれを全部、切り倒しました」と胸を張る。

~ホームセンターの金属製単管が売り切れになった
土地探しから始まり、地面を慣らしてその上に野球施設を作り上げる。球場以外にも、雨天対応可能な打撃練習場やブルペン、屋外食堂も完備した。「お金をかけずに最高の環境を造る」思いだったが、それなりの出費もあったはずだ。
「トータルで2,000万円ほどです。メイン球場とサブグラウンドで約300万円。想像以上にお金がかかったのが屋根とメイン球場のスタンドです。屋根だけで約300万、スタンドも全部足場を組んでいるので同じくらいかかりました」
「球場から少し行くと、工事業者専門のホームセンターがあります。そこの金属製単管が全て売り切れになったほど。スタンド用の足場を組むのに、かなりの数が必要でしたから。お店の人も苦笑いしながら、『頑張ってくださいね』と応援してくれました」
スタンドを備えたメイン球場の外野フェンスも、しっかりとした壁になっている。当時中学3年生だった佐藤コーチもペンキ塗りを手伝ったことを忘れない。
「八幡グラウンドの外野フェンスは草野球場のようなフェンス。能満グラウンドのものは板の壁なので、本格的に感じました」(佐藤コーチ)
「新球場ができた時に在籍しているのだから、ペンキ塗りなど、思い出に残るようなことをやって欲しかった。『市原ポニーみんなで造り上げた球場』ということを忘れないでいてくれれば嬉しいです」

~みんなで造りあげた球場を未来永劫、存続させたい
2025年の今年、能満グラウンドは10周年を迎えた。野球界もその間、時代に即す形で多くの変化を遂げつつある。市原ポニーはもちろん、能満グラウンドも今後アップデートしていくことが求められるはずだ。
「予算がかかることは承知ですが、外野だけでも良いので人工芝になったら嬉しい」
佐藤コーチは市原ポニーから東海大相模(神奈川)、国際武道大(千葉)と、各カテゴリーの強豪チームでプレーしてきた。「選手のレベルアップには、効率的で実戦を意識した練習ができるグラウンドが必要だ」と力説する。
「雨が降った時もケージで打撃練習はできます。外野が人工芝ならば、走塁練習や簡単な守備練習も同時にできます。貴重な練習時間、何もしない選手が1人でも出るのは避けたいです」
「高校以上になると人工芝での試合も増えます。土と芝のグラウンドとは感覚が全く異なります。身体への負担も大きいので、早い時期から慣れておくことは絶対的な武器になります」
「野球は進化しており、今の野球は若い世代のコーチがよく勉強しています」と、佐藤コーチの話に那須監督は大きく頷く。
「選手のレベルアップに関してはコーチに一任しています。監督(=指揮官)の立場からは、能満グラウンドを永続的に維持することが重要だと考えます。市原ポニーの思いが詰まり、みんなで手造りした施設。今の場所に存在し続けて、後輩達はプレーしている姿をずっと見せて欲しい」
「僕と手伝ってくれた保護者の方で造ったのは、ベース部分だけ。そこから先は関係者の皆さんが協力を惜しまず、今のような姿に磨き上げてくれました。みんなで造った施設が、ずっと存在し続けてもらいたいです」

「待ち時間なく野球に打ち込める球場。他では体験できない中学野球ができる場所です」(佐藤コーチ)
「好きな野球を夢中になれる場所を造ったつもり。ここで野球をやってみてもらいたい」(那須監督)
大好きな野球に対して、思う存分、効率的に打ち込むことができる。市原ポニーの選手達が上手くなる理由の1つが、ここにはある。
「それを造れば、彼はやってくる」。映画『フィールド・オブ・ドリームス』と同じことを、市原ポニーは体現している。市原能満グラウンドは野球を愛して、上達したい選手や関係者が集う場所だ。
(取材/文・山岡則夫、取材協力/写真・市原ポニーベースボールクラブ)
