不動のCBを動かすもの

2016年某日。
レベルファイブスタジアムはアビスパ女子、通称アビー女発掘プロジェクトとしてフェイスペイント、ネイルを提供するブースを設けた。
そこには一人、来場者へ積極的に声をかけている女性がいた。

アビスパ福岡 レベルファイブスタジアム

さかのぼること2014年冬。

「私サッカー選手と結婚する」

突然大事な幼馴染に告げられた。

サッカー選手といえばどういったイメージを思い浮かべるだろうか。

チャラい。
将来の収入の見通しがない。
私の脳裏には真っ先にこれらが浮かんだ。

結婚相手にはまず向かないだろう。
また、妻となるからにはプロの選手をサポートしなくてはならない。
彼女は当時22歳であり、故郷の埼玉から一歩も出たことのない箱入り娘であった。
そんな彼女が付き合って2か月あまりのサッカー選手と結婚するというのだ。

正直私には不安しかなかった。

しかし、そのサッカー選手は出会った瞬間にその不安をぬぐい取ってくれた。
サッカー選手とはこんなに真面目で紳士的な人物なのだと教えてくれた。

濱田水輝 横断幕

『濱田水輝』浦和レッドダイヤモンズユース→浦和レッドダイヤモンズ→アルビレックス新潟(レンタル)→浦和レッドダイヤモンズ→アビスパ福岡

二人の出会いは濱田の浦和レッズ最後の年であった。
出会った頃には今季限りで浦和を出ていく決意をしていた濱田。
付き合うまでのデートの中でも、度々「来年はここにはいないから」と口にしていた。

付き合うまで、21時には家まで送り届けるという超絶健全なデートを9度にわたり繰り返し、12月頭に交際がスタートした。
 

『移籍の決意』

そして12月半ば、アビスパ福岡への移籍が決まる。
濱田はレンタルで一度新潟へと行っているもののユース時代からずっと埼玉で育っている。なじみ深い埼玉からでるというのは、相当な決意だったのではないか。

そもそも、Jリーグ№1と言っても過言ではないだろう恵まれた環境の浦和レッズから、何故、環境も資金面でも格が下がるアビスパ福岡への移籍を決めたのだろうか。

そこには、濱田の「とにかく試合に出たい」という強い思いがあった。

高校卒業後、浦和レッズユースからそのままトップチームへと入団。
当時の浦和にいた同じポジションの選手には、日本代表として活躍していた闘莉王、坪井といった名の通った選手がいた。
濱田は「1年目、2年目は競争しているという感覚も全くなかった。自分は若手であり、練習すれば成長する。試合に出るのは今じゃない。」と、当時のこと振り返る。試合に出たいという思いが弱かったのだ。

そんな中、ロンドン五輪に向けた代表活動が行われた。

公式戦には出ていなかったが濱田は、対人の強さ、ボランチでもプレーできる器用さを買われ、関塚ジャパン不動のCBとして選出され続けていた。
当時のメンバーには現在も日本代表として活躍している大迫勇也、山口蛍、清武弘嗣といったメンバーが招集され、その中で濱田も一緒に戦っていた。

2012年 ロンドンオリンピック U-22 Japan

その経験で、「他のチームで試合に出ている人たちと自分は対等にやれる。しかしこのままだとどんどんおいてかれてしまう。」という焦りが芽生えたという。
ここからようやくプロとしての意識も高まり、リーグでの濱田の試合出場数も増えてきたところであった。

プロ選手4年目、リーグ開幕前から調子の良かったという濱田。
その勢いにのり、開幕戦もスタメン起用。
しかし、対広島戦に臨むも、0-1で敗北。その後すぐに五輪の代表合宿が行われ、2日後に第2節が行われた。合宿帰宅後ということ、前節の敗戦もあり、濱田はベンチスタートだった。
その試合、チームは勝利。
チームにとって喜ばしいことに、その試合以降浦和は勝ち続けた。
試合に勝利すればそうメンバーを変えることはない。
良いスタートが切れたかと思われたプロ4年目だったが、その年も濱田が出場機会に恵まれることはなかった。

そして、招集され続けたロンドン五輪、そこに濱田水輝の姿はなかった。

苦しいほどに出場機会に恵まれることの少なかった濱田は、試合にでることの大切さを痛いほど感じている。
「お金、環境なんてどうでも良い。ただ、試合に出なければサッカー選手としての『濱田水輝』が消えてしまう。試合にでることこそがサッカー選手としての価値を上げることに繋がる。」
この思いこそが、濱田にゆかりの地『浦和』から『福岡』への移籍を決意させた。

イメージ画像

このタイミングで彼女と出会い、濱田は結婚まで意識をしていた。
彼女の存在が移籍の決意を揺るがすことはなかった。
このとき、濱田の頭の中では「1年遠距離をして、1年後、福岡へ呼ぼう」そう考えていた。
しかし、アビスパへの移籍を聞いた彼女の反応は予想だにしないものであった。

「私もついていく」

当時の濱田の食生活はというと9割が外食。
定食屋を選ぶなど気を使ってはいたものの限界があるだろう。
縁もゆかりもない地での食事面を心配した彼女は、彼の選手生活を支えるため決意した。
彼女もまた、安定した生活よりも将来が保障されていなかったとしても、「試合に出たい」彼を支える道を選んだのだ。

 

『2015年1月福岡での生活がスタート』

2015年アビスパ福岡といえば資金ショート後の大改革、再スタートの年であった。
井原監督率いる新制アビスパのJ1昇格へ向けての戦いが始まった。
しかし、大きな期待とは裏腹にリーグ開幕から3連敗という苦しい道のり。
そんな負のループを打ち破ったのは濱田だった。

第4節 福岡vs熊本 レベルファイブスタジアム
後半早々、CKから濱田がヘディングシュートを決め先制。
その1点が井原アビスパへ初白星をもたらした。

試合後、インタビューを受ける濱田

そこからチームも波に乗り、4月のGWの連戦へ負け無しで突入。

 

『選手にとって怪我とは』

順調に見えた福岡1年目だったが、突然の腰痛に苦しめられることとなる。
腰痛には全治があるものではないため、いつになれば復帰できるかが分からない。
当時のことを「相当メンタルはやられた」と話す濱田。
しかし、そんなとき力になったのは埼玉から一緒についてきてくれた彼女の存在。
彼女は「少しでも良いと言われているものは何でもやった」と話す。
福岡ソフトバンクの選手を見ているという整体師を探し出しだしたり、有名な気功の先生に見てもらったりと・・・
さらには、自分でアロマを勉強し、神経系の怪我に良いとされるグレープフルーツのオイルを使い毎晩リンパマッサージを施した。
そこから、今までは倹約し我慢していたヨガをはじめた。
「お金がかかっても、少しでも選手生命がのびるのであれば」という一心で始めたという。
「結局、何が良かったのかは分からないけど、本当にいてくれて助かった」と当時のことを笑いながら振り返る。

そこから2か月後、2人は婚姻届けを提出した。

結婚してからも2人の関係は変わらず支え合いの生活。
お互いがお互いを思いあっているのがよく伝わってくる。

彼女の作るごはんはいつも品数が多い。
米+汁物+5品以上は必ず用意するという。

濱田のコンディション維持のための手料理

さらに、試合の前日はエネルギーが発揮できるようにと炭水化物多めにし、白米がすすむようなおかずを心掛けている。そして砂糖も一切使わない徹底ぶり。

濱田はそんな妻に感謝し、負担をかけすぎないように試合の前日、二部練以外の週1回は外食にして料理休みの日を作っている。

 

『J1昇格そして』

濱田も試合復帰し、結婚生活がはじまったところで、再びアビスパに好機の流れがやってくる。そしてリーグ3位となりプレーオフを経て見事J1昇格。
しかし、J1の壁は高いもので、昇格後1年でJ2降格。
今期再びJ1への昇格を目指した挑戦が始まる。

彼女はどんなときも応援している。
どんな時も濱田を、そしてチームの勝利を祈っている。
彼女は毎試合欠かさずスタジアムに足を運んでいるという。濱田が離脱している間だってチームの勝利を願い、足を運んだ。
遠いアウェーの地でも、彼女の想いは傍にいる。

手作りのお守り1

手作りのお守り2

毎年作るという彼女お手製のお守りが、濱田のそばには必ずある。

「チームのためにできることがあるならなんでもやるよ」と彼女は明るく話す。
妻がチームのために働く姿というのは珍しい光景だ。しかし彼女はよく動く。
チームが勝利するために、アビー女プロジェクトのイベントだって手伝う。
そして何よりそれを楽しんでいる。
2人は話す。
「自分が一生懸命悩んで考えて決めたことは自分にとって全部正解」なのだと。
だから2人はいつも前を向いている。
そして2人の願いは一つ「J1でやりたい」その願いに向けて、J1昇格に向かって、今日も二人は互いを思い合いながら進んでいく。

2015年Jリーグ応援フラッグ

どんなスポーツ選手の裏にも必ず支えてくれている人がいる。
それが家族なのか、恋人なのか、友人なのか、スタッフなのか、形は違えどその人々の存在はきっと、選手のプレーにも、モチベーションにもかかわっているのだろう。
人は一人きりでは成功為しえない。2人の二人三脚の姿は、支え合うことが何よりも大切なのだと改めて気づかせてくれた。

小松 花梨
現役 ヨガインストラクター *栄養士/健康運動指導士/元大学蹴球部栄養アドバイザー


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