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元プロ野球選手・喜田剛が振り返る10年間の現役生活。「辛く、悔しい」鍛錬の日々と導かれた広島での才能開花

現在アンダーアーマーの総代理店である株式会社ドームで、コンシューマーマーケティング部のチームリーダーとして活躍している喜田剛氏。

ドーム社に入社する前は阪神や広島などセパ4球団を渡り歩き、プロ野球選手として10年間プレーした。今の仕事に活かされているという現役生活を振り返った。

(取材協力:アンダーアーマー 取材 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)

星野監督初年度の阪神へ入団

福岡県出身の喜田は沖学園高校から福岡大学を経て、01年のドラフト7巡目で阪神に入団。当時は捕手で、背番号は「3代目ミスタータイガース」と呼ばれた田淵幸一も背負った「22」を与えられた。

ただ、キャンプ初日に外野へコンバートとなりプロ生活がスタート。ここから「辛かったですし、悔しかったです」と語る通り、立ちはだかる厚い壁に立ち向かう日々が始まった。

喜田が入団した頃の阪神はまさにチームの転換期でもあった。

ルーキーイヤーの02年、球団は80年代後半から突入した”暗黒時代”からの脱却を図るべく闘将・星野仙一を監督に招聘。これまで4年連続だった最下位を就任1年目にして脱出した。

さらに同年オフには金本知憲や下柳剛、伊良部秀輝などを次々に獲得し、同時に20人以上が退団するなど大胆な”血の入れ替え”を行っていった。

これらの大型補強が実り、翌03年には85年以来18年ぶりのリーグ優勝を果たした。岡田彰布監督となった2年目の05年にもリーグ優勝をするなど、優勝争い常連のチームへと変貌を遂げていった。

「あの時の外野手はポジションがなかったですね。結果を出してもずっと2軍でしたから…」

阪神時代を振り返る喜田

喜田本人も吐露した通り、特に阪神の外野陣は当時12球団の中で最も充実したとも言えるメンバーで固められていた。

左翼には金本知憲、中堅は赤星憲広、右翼は主に濱中治・桧山進次郎などが務め、ほぼ不動のメンバーであった。

濱中は03年途中、守備の際に右肩を脱臼し長期離脱となってしまうが、一塁を守っていた桧山が本職の外野へ回るなど4人全員がレギュラーとして活躍。チームを優勝へと導いた主役たちである。

球団史にも名を刻む選手たちがひしめく中、喜田はファームで己の実力を発揮し続けていた。

1年目に「第14回アジア競技大会野球」の日本代表の一員として6試合で3本塁打を記録するなどチームの銅メダル獲得に貢献。2年目にはフレッシュオールスターで3ラン本塁打を放ち優秀選手賞を受賞するなど大舞台で輝きを見せた。

初めて1軍に昇格したのは2年目(03年)で、チームの優勝決定後であった。この年のオフにメジャーへ挑戦した大塚晶則(現:晶文、中日1軍投手コーチ)から初安打を放つものの、この1打席のみだった。

ウエスタン・リーグで2年連続2冠王に

「タイガースでは、自分と向き合ってしっかり野球に取り組めたのが大きかったです」

1軍の高い壁に阻まれながらも1年目からファームで活躍を続けていた喜田は、いつ来るか分からないチャンスに備え鳴尾浜でその牙を研いでいた。

「朝から晩まで毎日練習していました。午前中練習して、昼に試合があって終わると17時半頃まで特打特守。18時からの食事後30分から夜間練習があって大体20時までやっていましたね」

ファームの本拠地のある鳴尾浜は甲子園球場からバスで約25分ほどの距離に位置し、周辺は海に面した工業地帯。飲食店もほとんどなく、野球だけに集中できる環境だったという。

「寮の門限が22時半なので、残りの1時間くらいはチームメートと一緒にコンビニに行って大人買いするのが唯一とも言える楽しみでした(笑)」

日々の猛練習に耐え、さらに実力をつけた喜田は05年にウエスタン・リーグで打率.303・21本塁打・55打点、06年も打率.278・14本塁打・56打点と2年連続でリーグ2冠王を獲得した。

阪神時代、厳しい猛練習を耐え抜いたことを懐かしく振り返る

ただ、ファームではタイトルを獲得するほどの結果を残しても1軍昇格のチャンスは一向に巡ってこない。

「(06年当時は)今では笑い話ですが、『逆にタイトルを取らせないでほしい』と思ってましたから(笑)。当時は松田選手(ソフトバンク)と歳が近いのもあり2軍で切磋琢磨していました。

マッチ(松田)は打てば1軍に上がっていましたし、オリックスにもT-岡田選手がいたのですが、やはり打つと1軍に上がるのでライバルがいなくなっていくんですよ。自分だけが2軍戦に出場し続けていたのでタイトルを獲得できたのだと思います」

07年途中、広島への移籍が転機

阪神では4年間で1軍の出場試合数は8試合。そして5年目の07年、厚い壁に阻まれながらも腐ることなく猛練習と結果で示してきた喜田にようやく転機が訪れた。

それは、広島での2軍戦に出場していた時のことだった。

「広島市民球場でカープとタイガースの親子ゲームがあった時でした。午前中に僕がファームで試合に出ていたのですが、3連戦で12打数4安打、ホームランも3本打ったんですね。最後の日にファーストを守ってたら、『キダサン!キダサン!』って言ってる人がいて。

最初ファンの方だろうなと思っていたんですけども、1塁ベンチを見たらブラウン監督(当時)だったんです。『喜田さんカープに来て!』って試合中に言っていたんですよ(笑)。そこから1週間も経たないうちにトレードになりました」

5月21日にトレードとなり、翌日の交流戦初戦であるオリックス戦(京セラドーム大阪)でブラウン監督は喜田を早速スタメンに起用した。

「トレード当日に記者会見してその日は移動日だったのですが、次の日の交流戦初戦からスタメンで使ってもらいました。そこでも打てたんですよ。移籍して最初の5試合位も打ち続けたので、気持ちも落ち着いてきましたね。チームの一員になれた実感と『1軍でやっていける』っていう自信が湧いてきました」

広島での初打席初安打を皮切りに、その後もスタメン出場を続けた。5月30日のロッテ戦(広島市民球場)では、当時のエース・清水直行からプロ初本塁打も放った。

広島への移籍が転機となったと語る

6月11日のオリックス戦(同球場)では初のサヨナラ打も放ち、お立ち台にも上がった。一時は打率3割を超えクリーンアップも務めるなど、この年だけで67試合に出場し指揮官の期待に応えた。

さらに翌年も66試合・09年には自己最多の78試合に出場し、1軍での出場機会を掴んでいった。

「カープではブラウン監督をはじめ、首脳陣・選手みんなが声をかけてくれました。見逃し三振をしても『はい次!、切り替えて!』であったり、空振り三振しても『あのスイングでボールに当たったらスタンド行ってるよ』といつも言ってくれたので」

オリックス時代、生じたバッティングでの迷い

その後10年5月に再びトレードでオリックスへ移籍。阪神時代、入団当時2軍監督、1軍でも指揮を執っていた岡田彰布監督の下で再びプレーすることになった。

トレード直後、すぐに1軍に合流。チームは交流戦の優勝が懸かっていた時期だった。

ただ、喜田はこの年開幕から思うような打撃ができていないと感じていた。違和感を感じたまま移籍し、

「結果を出したい」・「チャンスをくれた監督のために」などと様々な感情が混ざり合い、焦りへとつながっていった。

さらに追い討ちをかけるように、自身のスイングとチームの指導方針にすれ違いが生じ、『バッティングがわからなくなっていた』という状況に陥った。

喜田は野球を始めてから教わってきたのは”バットは最短距離で振る”。しかし、当時のチームでは今でいうフライボール革命の走りで”アッパースイングで振り上げていく”という指導だった。

この理論をしっかりと理解できないまま取り組んだ結果、イメージと身体の動きが合わなくなり打撃を崩していったという。

横浜での最終年、「楽しい1年でした」

そしてこの年10試合の出場に終わり、オフに三たびトレードで横浜(現:DeNA)ベイスターズへ移籍。11年は現役最終年になった。

迷ったままの状態でまた新たな環境へ移り、さらにこの年は1軍出場がなかったシーズン。しかし、本人から出た言葉は意外なものだった。

「ベイスターズでの野球は面白かったです。2軍監督だった白井(一幸)監督の指導が論理的で分かりやすかったんです」

キャンプでは、原点に立ち返ってこれまで20数年続けてきた打ち方に戻すべく取り組んでいた。ただ、白井監督からキャンプ初日に「最短でバットを出すと打てないよ」と言われたのだという。

「またそれか…」と一瞬前年の迷いが頭をよぎる。しかし、白井監督は丁寧にその根拠を説明した。

『最短で打つとボールの接点が1点しかないでしょ? ボールのラインに乗せてレベルスイングで振ってみな』

『カットボールやツーシームのように小さな変化が多くなる中で、ミートポイントが少なくなる打ち方ではこれからの時代難しくなる』

などと、白井監督は多くの例を交えてその根拠を丁寧に伝えた。指導を受けた喜田は徐々に迷いがなくなり、考えが柔軟になっていった。

「当時32歳で野球歴も22年でしたけれども、聞いていくと『面白いな』と思いました。現役もやれてあと今年1年かなと思っていたので、白井さんの教えを本気でやってみたいと思えたんですよね。そういう1年になったのですごく楽しかったです」

現役最後の横浜時代、新たな気づきと共に臨んだ。

頭の中も整理され、腹を括ったという喜田はこのシーズンを新たな打ち方で取り組んだ。結果としては1軍に上がれることはなかったが、「ブレることなく、最後まで取り組めた1年」になった。

この年限りで戦力外通告を受け、10年間のプロ野球生活にピリオドを打った。

「現役生活は全てを出し切りました。99%”悔しい・辛い”思いなのですが、カープでは3年間1軍の舞台でプレーできて良い経験をさせてもらいました。でも、思い返すのはタイガース時代。

鳴尾浜で朝から晩までバットを振ったことが真っ先に浮かんできますね。精神的にも鍛えられた10年間ですし、今の仕事にも活かされていると思います」

引退翌年にドーム社の関連会社でアンダーアーマーの店舗スタッフなどが所属する「株式会社ドームヒューマンキャンパス」に入社すると、「アンダーアーマー ベースボールハウス」で店長を務めた。そこでは売上目標を13ヶ月連続で達成するなどすぐ結果に繋げた。

今は契約している現役選手のサポートのために球場を周り、自身の経験やアドバイスを惜しみなく送っている。今後、「喜田さんのサポートのおかげです」と言う選手がたくさん出てくることに期待したい。

(おわり)

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