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スポーツ科学で障害者教育に新たな道筋を切り拓く 松山直輝さん(前編)~「頑張るだけでは成功できない」陸上競技の選手経験を経て研究者の道へ ~

スポーツでは「科学的なトレーニング」が当たり前の時代になったと言ってよいだろう。大学や研究機関の研究の成果を元に科学的なトレーニングを導入し、成果を上げる競技・チームが増えている。

かつては選手や指導者の経験と勘に頼り、根性論が蔓延していたスポーツ界。しかし競技スポーツの現場が研究者の意見を取り入れるようになったことで研究と現場が融合し、スポーツ科学を活用した成功事例が聞かれるようになった。そして成功事例が増えると様々な競技やチームが追従し、科学的なトレーニングが普及していった。

多くの人がスマートフォンで動画が撮影でき、インターネットにつなげる時代。動画の撮影や解析も容易になり、センサを内蔵した端末も市販されるようになった。筆者も心拍計を内蔵したGPSウォッチと上下動や左右のバランスを計測できるセンサ端末を購入し、趣味のランニングで愛用している。パソコンやスマートフォンの性能向上で画像解析も容易になり、昨今ではスマートフォンで使える野球、サッカー、バスケなどの動画解析アプリが普及している。研究分野でも競歩の歩形違反を高精度のカメラではなくスマートフォンで撮影した動画で検出する研究の発表がされている。

そして今も多くの研究者がスポーツ界の発展に貢献しようと様々な研究を積み重ねる。一方、スポーツ科学を他の分野に応用して成果を上げる研究者もいる。2022年東京家政学院大学の助教に就任した松山直輝さんもその一人だ。Bリーグクラブでスポーツ指導の現場を経験した後、知的障害や肢体不自由のある生徒の教育にスポーツ科学を応用し成果を上げる松山さんの背景と想いに迫る。

長距離選手だった両親の影響でスポーツを始める

スポーツ科学の研究者の多くが競技スポーツの経験者だ。松山さんもその一人。競技スポーツを経験し、そこでの葛藤や出会いをきっかけにスポーツ科学の世界に入った。「専門的な指導を受ける機会が少なく、自分で学びながら競技を続けていた」という。競技スポーツを始めた理由を「スポーツ選手が身近な存在だったため、自然と始めていた」と振り返る。

松山さんの両親は陸上競技の長距離種目や駅伝で活躍した選手だった。

父・三政さんはコニカ(現・コニカミノルタ)に所属し、全日本実業団駅伝、東日本実業団駅伝を走った。個人でもバンクーバーマラソンでの優勝経験がある。同じ時期には現・コニカミノルタ監督の酒井勝充さん、元ヘッドコーチ佐藤敏信さん(現・トヨタ自動車総監督)も選手として活躍しており、たすきリレーも経験した。

松山さん(右)の父・三政さん(左)は実業団で活躍した長距離選手だった

松山さんは幼少期について「大会の応援にはよく行きましたし、コニカ陸上競技部の寮にもよく遊びに行きました。選手と一緒に寮のお風呂に入ったり、テレビゲームをして遊んだりしましたのは今でも覚えています」と懐かしそうに、そして笑顔で語った。幼少期の楽しい思い出の一つだったのだろう。一緒に遊んでくれた選手の中には当時コニカに所属していたエリック・ワイナイナさん(マラソンでアトランタ五輪銅メダル・シドニー五輪銀メダル)もいた。松山さんが初めて会った外国人だったという。

エリック・ワイナイナさんと幼少期の松山さん

長距離選手の両親の元で育った松山さんも自然と陸上競技を始めていた。最初は両親と同じ長距離選手。結果を出せず都大会に出場できなかった松山さんに転機が訪れたのは中学2年の夏。地区予選で走高跳と110mハードルの2種目で優勝。東京都大会でも6位に入賞した。地区予選の走高跳では背面跳びが一般的だが、独特の跳び方で1m65を跳んだ。その後背面跳びを覚えようとしたが、教えられる指導者がおらず「正しい背面跳びのやり方がわからなかった」と話す。そして記録は伸ばしたものの安定はせず、中学3年時は都大会で入賞することができずに中学生活を終えた。

本格的な指導でスポーツに対する考え方が変わる ~考えて練習することの重要性~

「自分自身で勉強するしかない」と考えた松山さんは中学3年の秋から図書館に通い、書籍から知識を吸収した。その知識でフィジカル強化に成功、高校1年で1m90まで記録を伸ばす。しかし「本に書いてある理想的な動きができなかった」という。理想的な動きは書籍から知ることができた。それを自分が体現する方法までは知ることができず、再び伸び悩んだ。

そんな苦悩を抱えていた松山さんは一人の指導者との出会いをきっかけに選手として大きく成長することになる。高校2年の秋、外堀宏之(ほかほり ひろゆき)さんと出会ったのだ。

外堀さんは大会で走高跳の審判を務めることが多く、同じ支部の高校の生徒で走高跳に出場する松山さんとは顔を合わせることが多かった。そして自然と会話するようになっていたという。「走高跳の選手としてとてもいいものを持っているが、改善点も多い。もっとこうすれば跳べるようになる、ということがとても分かりやすいタイプ」と感じていた外堀さんが松山さんに声を掛け、指導が始まった。

松山さんはこの出会いを「スポーツはただ頑張ってやれば成功するものじゃないということを学んだ。運動の見方、考え方を教えてくださった」と振り返る。特に理想的な動きを実現する方法を助言してもらった事が大きかった。「教えていただいたことは助走のリズムなど基礎的なことが中心ですが、専門的な指導を受けたことがなかった自分には大きなヒントになりました」と語る。記録を大きく伸ばし、3年時には2m04(当時全国高校ランキング6位)を記録してインターハイに出場するまで成長した。

松山さんは高校時代に走高跳で2m04(当時全国高校ランキング6位)を記録した

外堀さんは走高跳で2m23の記録を持ち、筑波大大学院時代に日本インカレ優勝、日本選手権3位入賞という輝かしい実績を持つ。現在は桐朋学園中・高の監督だ。八種競技でインターハイ3連覇を目指す高橋諒選手を指導するほか、卒業生には110m障害・400m障害の両種目で活躍、豊田兼選手(現・慶應義塾大)もいる。豊田選手は4月に行われた日本学生個人選手権の110m障害で優勝、ワールドユニバーシティゲームズの代表に内定している。

「スポーツ科学を学びたい」と考え大学へ進学

独学で学んできたスポーツ科学を専門的に学びたいと考え、東京学芸大学を受験した。入学面接時には走高跳について自分の考えを語ったという。面接官は体操競技で世界選手権や1972年ミュンヘン五輪団体優勝経験のある本間二三雄さん。「あんなに楽しい面接は最初で最後」と振り返る。「君のやりたいことがスポーツ科学の中の一分野としてある」と言われたという。それは本間さんが専門とするスポーツ運動学と言われる分野で、松山さんが苦労した理想の動き方を体現する方法に関する理論も含まれる。そして松山さんは本間さんの指導の下、スポーツ運動学を学んだ。

その後、更にスポーツ科学を専門的に学ぶため東京学芸大学の大学院に進学。その後研究者を志し、早稲田スポーツ科学学術院(博士課程)に進学し、博士号を取得。だが、すぐには研究の道に進まなかった。

「一度現場に出て、実際のコーチングに直に触れたいと思いました。現場の問題意識を持った上で最終的に研究者になりたいと思ったのです」と振り返る。

黎明期のBリーグで「走り」を変える

博士号を取得した後は発足したばかりのBリーグに所属するシーホース三河で働くことになった。入社後、バスケットボールアカデミーの発足と運営を行う統括業務、ユースチームのフィジカルトレーニング指導の双方を担当。1人でゼロから組織を設立する必要があったため、業務は多忙を極めた。そんな中でも自身の競技経験や大学院で得た知識を活かしU15の選手の育成で独自の取り組みに挑戦した。

松山さんはBリーグ・シーホース三河の運営に携わりながら、U15の指導にも尽力した

松山さんは走ること、跳ぶことを技術面で改善、すなわち体の動かし方を改善するアプローチで強化を図った。理想の走り方、跳び方を習得する指導をしたのだ。

走り方の指導では姿勢に重点を置き、切り返しの際に0.01秒速く他の選手より動き出す事、最初の2~3歩で競り勝つ事を目指した。

走り方を改善して速く走る。一見当たり前のようにも見える。だが「バスケットボールでは走り方、跳び方の技術を専門的に指導した事例はこれまでなかった」という。

「バスケットボールは重心を下げ、背中を丸めた姿勢で走ってしまう選手が多いのですが、背中を丸めるとスピードが出せない。そこで基本的な姿勢や上半身と下半身を協調して動かすことを意識させた技術トレーニングをすると大きな改善があります。バスケットボールは身長の高い選手がドリブルでボールを低い位置で触らないといけないという特徴もあるので、それも踏まえて指導しました」という。

バスケットボール未経験者の松山さんが提案したトレーニングを選手やコーチが受け入れ、その成果をゲームで発揮できた。「もちろん戦術の影響もあるのですが」と前置きしたうえで、「4月はゲームでゴール下に入れなかったのが、10月には入れるようになっていた」という。他のクラブに比べ年齢が低い選手が多く、体格で負けていたため、「4月には(相手ディフェンスに阻まれ)なかなかゴール下に入れさせてもらえなかった」のが姿勢を変えた事で先行してゴール下に入れるようになっていた。

松山さんはこの取り組みを一つのクラブの成功事例で終わらず、論文として広めようとしている。論文は未発表だが、論文誌に投稿済みだ。多くの研究者の目に触れることで、新しい取り組みや成果につながるかもしれない。

スポーツの現場から教育の現場へ

シーホース三河退職後、当時広島県庄原市の特別支援学校※に勤務していた大学時代の先輩が同校で教員を募集していることを教えてくれた。「知的障害のある生徒の指導にスポーツ科学を合わせれば新しい指導の形ができるかもしれない」と考えた。それまで住んでいた愛知県、そして出身地の東京都からも遠く離れた広島県にスーツケース一つで赴任した。
※障害による学習や生活の困難を克服し自立を図るために必要な知識や技能を身に付けることを目的とする学校。(文部省ホームページを参考に筆者記述)

パラアスリートの美しい動きに衝撃、いつかパラ陸上の指導に関わりたい

特別支援学校へ転身したのはパラ陸上の指導に関わりたいと思っていたからだ。そのきっかけは海外での衝撃的な経験だった。

大学院時代に他国の文化に興味を持ち、国際学会での発表に挑戦、その際に異国の地を回った。「トレーニングにはその国の哲学的な視点が入っています。スポーツの表面的な知識ではなくもっと深い部分を現地で探りたかった」と言う。

大学院生時代は国際学会での発表にも挑戦した

そして早稲田大学スポーツ科学学術院に在学中に学内の公募に応募、イギリスのラフバラ大学で研究生として半年間滞在する機会を得た。QS社が公開している世界大学ランキングではスポーツ関連科目において最も優れた大学に選ばれたこともある。

研究だけでなく競技も続けた。同じ練習場所にダイヤモンドリーグ(世界最高峰の陸上競技リーグ)に出場する選手もいた。競技場では五輪メダリストを見かけることもあり、彼らにインタビューした結果は帰国後に論文として発表している。

松山さんはイギリス留学中も競技を継続、研究にも活かした

そんな中、気付いたのがパラアスリートの多さ。競技場には日本と比較にならないほどパラアスリートがおり、動きが洗練されていた。「特に印象に残っているのが走幅跳の選手。片足がない事を感じさせないスムーズな助走で、(健常者の)エリートアスリートにも負けない綺麗さ。とても衝撃的でした」という。そして「いつかパラ陸上の指導にも関わってみたい」という思いを抱いた。

特別支援学校でパラ陸上に関わるきっかけを得た松山さんだが、競技スポーツだけではなく「スポーツに挑戦したい」という生徒の希望にも応えた。後編では松山さんの特別支援学校での取り組み、そしてそこで得たものに迫る。

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