日本最大の独立リーグ、ルートインBCリーグが誕生するまで
広尾晃のBaseball Diversity:04
ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)は、2007年4月に開幕した。日本の本格的な独立リーグとしては、2005年3月に開幕した四国アイランドリーグに続いて2番目だ。そして現時点では8球団と、日本最大の球団数を有する。
BCリーグは、広告代理店の営業マンだった現株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング社長、村山哲二氏の「決断」と「転身」によって生まれたと言ってよい。
村山氏は2011年に「もしあなたがプロ野球を作れと言われたら」(ベースボール・マガジン社刊)を上梓したが、この著作と新たに村山氏にインタビューを行った内容で、BCリーグ設立の経緯をたどる。
敏腕営業マンとしてスポーツビジネス界で活躍
村山氏は新潟県の出身。
「高校までは野球をしていて、大学でも硬式野球を続けたかったのですが、親父がお前は足が遅いから通用しないと。それで普通に試験を受けて駒澤大に行き、準硬式野球をやりました。卒業後はBMWのディーラーになり営業成績日本一に2回なって、9年間で14回海外旅行に行かせてもらいました。で、この力を別の分野でも活かしたいと思っていた時に、電通東日本支社(のち電通東日本)の中途採用の募集があったんです。応募者は600人だと言うことでしたが、僕はいけるんじゃないかと思って受けてアカウント(営業職)で採用されました」
一流企業をクライアントにする電通での営業活動だったが、村山氏は頭角を現し、入社早々、サッカーのアルビレックス新潟を担当することになった。アルビレックスはJFLに昇格したばかりだった。
「1998年に日本が初めてサッカーワールドカップに出場してから、サッカーブームになっていました。アルビレックスは1999年にJ2に加盟。2001年反町康治監督のときにJ1に昇格するとスタジアムに大観衆が押しかけました。僕は野球出身で、当初はオフサイドの意味も分からなかったのに、どんどんのめりこんでいった。電通の仕事として携わっていましたが、同時にサポーターで、その熱量をビジネスに転化することが、ノウハウとして出来つつあったんですね」
アルビレックス新潟のJ1昇格がかかる試合の速報で、毎試合、ホームページのサーバーがダウンした。
「ホームは4万人のスタジアムがあるからスタジアムで応援できる。アウェーにいけないサポーターの為に、アルビレックスの試合をライブでサポーターに届けるのは、広告マンとしての俺の使命だ」と確信した村山氏はTBS系の地元ラジオ局に掛け合い、アウェーの試合速報をラジオで流した。劇的なアクセスがあった。
そうした取り組みの成果を含めて、電通東日本支社の取り扱いは当初の1000万円から約3.5億円と35倍になった。
独立リーグ創設を企画立案
村山氏は「そのころになると、アルビレックス新潟の営業会議に広告代理店の私も出席していました」と述懐する。そんなある日、当時のアルビレックス新潟のオーナーで、NSG(新潟総合学院)グループ理事長の池田弘氏から「野球のビジネスモデルを作ってくれ」と依頼されたのだ。運命のオファーだった。
「池田さんは、今のプロ野球は12球団の所在地周辺の限られた人たちにしか楽しめないコンテンツだけど、新潟にも気楽に応援できる野球を作る可能性を探ってほしい、と言いました」
そこで村山氏は①NPB球団の誘致、②社会人野球の招致、③独立リーグの設立の3つの選択肢を考え、検討に入った。
「選択肢①についてNPB事務局にも話を聞きましたが、当時は新潟にプロ野球開催が可能な本格的な球場の計画はなかったし、球場建設を含めれば、400億、500億というイニシャルコストがかかる。それを出せる事業家を探し出すことは村山には難しかった。
②の社会人野球は欽ちゃん球団を招致するようなイメージでしたが、社会人野球のモデルは私がやりたいマーケティングの領域が制限されるのでビジネス的には成立させることが難しい。
そこで一番可能性が低いと思っていた③独立リーグということになりました。2005年から四国アイランドリーグが始まっていました。創設者の石毛宏典さんは駒沢大の先輩です。会いに行っていろいろ話を聞いて、大変だという認識はありましたが、単独の球団ではなく、地方創生のための野球リーグを作るのなら良いのでは、となって、池田さんに企画書を提案したら“面白い”ということになりました。リーグの立ち上げに必要な費用は1億5000万円と試算しました」
“お前がやれ”で変わった運命
村山氏はあくまで池田氏、アルビレックスグループへの「提案」をしたつもりだった。
「僕は当時、電通東日本支社の営業部長で、サッカー、バスケットなどアルビレックスグループのスポーツの取り扱いの上に野球リーグも増えれば、また売り上げが上がるな、くらいに思っていたのですが、1週間後、池田さんはこんな面白いモデル作ったんだから、金出してやるから、お前やれって言ったんです」
村山氏の運命はこの時、音を立てて変わった。とき2005年、まさにNPBでは「球界再編」が起こり、四国でも独立リーグが誕生していた。
村山氏は石毛宏典氏が興した四国アイランドリーグを視察し、その課題や独自性をピックアップした。
1.四国は選手育成が目的だが、私達は地方創生を目的としたい。
2.四国の主役は選手だが、私達の主役は地域のファンとしたい。
3.リーグとチームの経営形態は独立採算制にすべき。
新リーグ設立に当たってはこれらを参考にして、組織や経営形態を決めていった。
2006年3月に電通東日本を退社し、足元の新潟だけでなく、長野県、富山県、石川県の野球界、経済界に球団設立の折衝を始めた。
石毛宏典氏も時間があれば同行した。石毛氏の「知名度」は、地方の野球界を説得するうえで大きくモノを言った。
「池田さんはJC(日本青年会議所)のご出身で、各地の経済界に精通した方でしたので、長野ならこういう人がいる、富山ならこの人と紹介してくださいました。そういう人脈をたぐっていきました。僕は“野球をやりましょう”とは言わなかった。“地方創生の手段として野球を”と説得しました。会社の社長には野球人がなりましたが、設立したのはみんな地元の経済人でした」
新潟は、アルビレックス後援会専務理事で野球事業の話が起こった時から行動を共にしていた藤橋公一氏が球団社長に就任。
長野は株式会社長野県民球団が設立され、長野県出身で前日本ハムファイターズの取締役統括本部長、三澤今朝治氏が代表取締役社長に、現飯島建設社長で明治大学野球部出身の飯島泰臣氏が副社長に就任。
富山は株式会社富山サンダーバーズベースボールクラブが設立され、富山県を代表する複数の企業の支援の下、高岡市のITベンチャーの永森茂氏が社長に就任。
しかし、石川県は引き受ける会社、人物が見つからなかったために見切り発車となった。
北信越ベースボール・チャレンジ・リーグの出発
村山氏は2006年5月に独立リーグ設立を記者発表。リーグ運営と球団経営を別個に行うと言う考え方に基づき7月、株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング(JBM)を設立し、社長に就任した。
10月になって石川県内の星稜高校野球部出身の会社経営者、端保聡氏が事業を引き受け、株式会社石川ミリオンスターズが設立された。
こうしてみるとBCリーグ設立の経緯は、四国アイランドリーグと大きく異なっている。四国は野球人石毛宏典氏が立ち上げ、経営者である鍵山誠氏が引き継いだが、BCは最初からビジネス畑の村山氏が立ち上げたのだ。
さらに、村山氏は新潟出身の漫画家、水島新司氏にアンバサダー就任を依頼する。
「同じ新潟県と言うことで、二つ返事で了解いただきました」
野球界にも精通する水島氏は「プロ野球OBクラブ」を紹介、各球団の監督、コーチはこのネットワークで決まっていった。
こういう形で地域の経済界、野球界が結集してBCリーグは形になっていった。11月、12月にはトライアウトを実施。選手も集まり、陣容は決まった。
当初は、球団の所在地から北信越ベースボール・チャレンジ・リーグと言う名称で、2007年4月に開幕を迎えた。
村山氏は初年度のリーグを
「レベルの高い選手は一握り。残りは『ストライクの入らないピッチャー』と『アウトの捕れない内野手』と言う状態」と述懐する。
選手のプレーの態度、マナーも良くなかった。球場に集まった野球ファンの中には「草野球よりひどい」と離れていく人もいたと言う。
それでも1年目、11月のNPBドラフト会議で、石川の内村賢介が楽天から育成1位で指名され入団。163㎝と小柄な内村だが、翌年には支配下登録され、ユーティリティプレイヤーとして楽天、DeNAで596試合に出場した。
日本で2番目の独立リーグ、BCリーグはこうしてスタートした。