アースフレンズBM 選手兼任監督・宮崎大輔―ハンドボール界のレジェンドは、ファンと共に次なる伝説を作り出す(前編)
周囲からは、「リーグの中でも経済規模が大きくない球団なのに、なぜレジェンドがいるんだ」と言われます。
チームの指揮官について尋ねると、山野勝行氏(アースフレンズ球団代表)は何とも誇らしげな表情で、そう答えた。
アースフレンズBMは、東京・神奈川エリアをホームタウンとするハンドボールチームである。2021年6月に誕生し、設立から約4ヵ月で日本ハンドボールリーグ(以下JHL)への参入を果たした。
アースフレンズBMを率いているのは、日本のハンドボール業界を長年引っ張ってきたレジェンド・宮崎大輔氏。
フィールドゴールの歴代最多得点(JHL)・日本人として初のスペイン1部リーグ移籍など、彼が残してきた功績は誰もが認めるものであろう。しかし、直近の1〜2年は、新型コロナウイルス感染による後遺症や右肩の手術など、苦しい時期を過ごしてきた。
そんな彼は今、選手兼任監督として、発足まもないチームで新たなチャレンジに挑んでいる。今回の取材では、宮崎大輔氏がチームへ加入した経緯について、山野勝行球団代表と本人に尋ねることができた。
あわせて、ハンドボール業界のレジェンドが選手兼任監督として奮闘する現在の様子について伺った模様をお届けする。
選手兼任監督として就任する以前、宮崎大輔氏は長く苦しいトンネルのなかにいた
――今回のチャレンジについて、選手としては最終章という位置付けをされているのでしょうか?
宮崎監督:前提として、どんな選手にも必ず最後はやってきます。ただ、私のなかでは今回で最後というよりも「アースフレンズBMの一員として結果を出して、もう一度ハンドボール業界を盛り上げたい」という思いで入団しました。
例えば、私たちは東京都・神奈川県を拠点に活動していますが、東京都の学校にはハンドボール部の数が多くありません。私たちが活躍することで、ハンドボールをもっとメジャーな競技にしていきたいです。
――コロナ後遺症や怪我の影響もあり、直近の1〜2年は満足にプレーできなかったようですね。苦しい時間が続いたなか、新たなチャレンジを支えた原動力は何だったのでしょうか?
宮崎監督:2020年以降は自宅で過ごす時間も長くなり、高いモチベーションを維持するのが難しい時期でもありました。
当時の私は39歳。加えて怪我を抱えており、選手として獲得してくれる球団を探すのは難しい状況でした。チャレンジできることが少なくなり、現役を離れて地元の大分県へ戻ることも考えたくらいです。
コロナ禍のため外で満足に練習ができないなか、自宅でスマホを開くと批判的なコメントを直接目にすることもあって…。身体が思うように動かない苦しさもそうですが、当時は精神的にもかなり落ち込んだ時期でした。
再び前を向くキッカケになったのは、ファンから届いたメッセージの数々です。なかには「応援している私たちの存在を感じて欲しい」と書かれたコメントもあり、ファンからの言葉は大きな勇気になりました。
――宮崎監督はSNSでのフォロワー数も多いですが、1つ1つのコメントに目を通されていたのですね?
宮崎監督:はい。当然、私に届くメッセージは、ポジティブな内容ばかりではありません。ただ、どんなときでも応援してくださるファンの言葉・存在に支えられて今の私があります。
「応援してくださる方がいるから諦めたくない」「もう一度立ち上がらなきゃいけない」そのような感情を抱きながら、夜中に1人でランニングを続ける日々が何日もありました。アースフレンズBMの山野代表から声を掛けていただいたのは、丁度その頃だったんです。
初めての顔合わせで意気投合。一緒にゼロからチームを作っていこう!
――ハンドボールチームを発足するにあたり、山野代表はどのようなリーダーを求めていたのでしょうか?
山野代表:リーダー探しをするなかで、私は以下3つの条件を掲げていました。
- 世界に挑む気持ちはあるか
- 多様性の時代を作っていくことに対し、一定の共感があるか
- 「人は成長して逆転できる」ということにコミットできるか
山野代表:大輔は、日本で初めてスペイン1部リーグに挑戦した人物です。世界にチャレンジする気持ちは、今も強く持ち続けています。
大輔と初めて会話をしたのは、2021年1月のこと。知人の紹介で出会ったのがキッカケです。数時間その場で話したあとに「チームのリーダーを任せるなら、大輔しかいない」と私は感じました。
――宮崎監督は、山野代表と話した際にどのようなことを感じましたか?
宮崎監督:初めてお会いした場で、山野代表がバスケットボール男子Bリーグのチーム(アースフレンズ東京Z)を運営していると聞きました。そして「ゆくゆくはハンドボールチームを作りたい」と。私が「本当に作るのですか?」と確認したら、「本気です」と話されて…。
ゼロからハンドボールを作るというチャレンジ精神に、私の心も動かされました。そして私は、選手として再びコートに戻ることを目標にしていたので「もう一度、自分の夢に本気でチャレンジできる場所が見つかった」と思いました。
――当時は、選手どころか球団すら存在しない状態だったと思います。不安な気持ちはなかったのでしょうか?
宮崎監督:すでにバスケットボールの世界でプロの球団を経営されていましたし、山野代表の言葉には強さを感じました。それに、新球団を立ち上げるのは、誰がやってもキツいことだと思うんです。
山野代表は、私にもう一度チャレンジする場所を与えてくれた。「私に何かできることはありませんか?」ということで、選手兼任監督としての挑戦を決断しました。
――山野代表と宮崎監督は、すぐに意気投合できたのですね。
山野代表:当時は大輔が進路を模索していた頃だったので、タイミングも良かったですね。実は、私も学生時代はハンドボール部に所属しており、大輔のことはずっと観客席側で見てきました。
あれだけ豪快なシュートを放っていた選手が、今では思うようにボールを投げることすらできない。でも大輔は、選手としてコートに戻ることを諦めていなかった。「人は成長して逆転できる」というストーリーを、まさに行動で実践する男です。
レジェンドがどのように選手として復活の道を歩んでいくのか、1人のファンとして間近で見届けたい気持ちも正直ありました。
“選手兼任監督”だからこそ得られた気付きとは?新たなチャレンジで得られたもの
――選手兼任監督として過ごすなかで、率直に今どのようなことを感じていますか?
宮崎監督:「監督業は本当に大変だな」「選手時代は楽だったな」と感じています。例えば選手は、自分が練習をしてチームに還元すればそれで良い。
でも、監督として選手を預かるとなると、1人1人の特徴を理解して全体をバランスよく動かさなければなりません。「わがままを言って申し訳なかった」と、歴代の指導者に感謝する日々です。
――他に、選手兼任監督だからこその難しさはありますか?
宮崎監督:プレーヤーとしてコートに立つと「監督としての視点を持つこと」が疎かになってしまいます。なので、もし私が選手としてコートに立つなら、チーム全体の戦術はコーチに任せようと思っています。そのくらい、選手としてコートに立つことと監督として全体を見ることの集中力には、大きな違いがあるんです。
――そもそも「選手としてもう一度コートに立つ」という目標もあるなか、選手兼任監督として入団されたのには、どんな理由があったのでしょうか?
宮崎監督:私は大学卒業時に指導者ライセンスを取得しました。指導者としての勉強をするなかで「選手としてプレーしながら指導者の立場でチームを動かしたい」という感情が芽生えたからです。
――「選手だけやっていれば良かった」と後悔する気持ちはありますか?
宮崎監督:監督の立場でないと味わえないこともたくさん経験できているので、選手兼任監督を選んだことは後悔していません。
例えば、選手時代は自分でゴールを決めたほうが嬉しかったのに、今は自分よりチームメイトが活躍したときのほうが嬉しい。シュートを決めるとかキーパーがセーブするとか、練習したことが試合での活躍に結びついたときが、今の最高の喜びです。
――発足したばかりのチームだと、環境面での課題もあるかと思います。今、監督が最も大変に感じていることは何ですか?
宮崎監督:チームとして専用の体育館を持っていないので、練習場所を確保しづらいことです。都内だと、平日にハンドボールの練習ができる体育館を借りることは難しく、どうしても週2〜3回の練習になってしまいます。練習場所は毎日のように変わりますし、私自身、40歳になって初めてハンドボールコートを作りました。
例えば、JHLの選手の場合、練習用のコートは最初から作られてある状態です。これまでが幸せな環境でプレーできていた分、「コートの作り方も知らないプロなんて恥ずかしいな」と思いましたね。
私は「この歳で良い経験ができた」と思っていますが、チームの選手には申し訳ないです。コートを作るのに30分かかるとして、他の球団の選手たちはその30分を練習時間に充てられますからね。本当は、ライバルチームのように週5〜6回のペースで練習したい。
ただ、環境に文句を言っても仕方がないので「今ある環境のなかで精一杯戦っていくぞ」と選手たちには伝えています。
――山野代表から見て、宮崎監督がチームにもたらす影響はどのようなものがあると思いますか?
山野代表:大輔は、何をやったら周囲が喜ぶのかを考え、それを実践できる人間です。例えば、彼は試合後に会場のゴミ拾いを必ずおこないます。コロナ禍でおこなわれた昨年のリーグ戦、観客は誰もいませんでしたが、大輔にとっては誰かが見ているとか見ていないとかは関係ない。
そして、選手やスタッフにも「ゴミを持って帰れよ」と必ず言うんです。また、ハンドボールではボールを握りやすくするために松脂(まつやに)を使うのですが、これだけのレジェンド選手が松脂の掃除を率先しておこなう。
監督の立場であろうがスター選手であろうが、彼は周囲の人が喜ぶことをやる男です。大輔と一緒に過ごすなかで、僕自身も勉強になることがたくさんあります。
山野代表:彼がファンサービスする姿を見ていても、常に相手を喜ばせたいと考えていることが伝わってきます。
例えば、試合後の監督インタビューって「勝ったのは選手のおかげです」とか「負けたのは僕のせいです」とか、似たようなコメントになりがちだと思うんです。
でも、大輔は常に周りを見ているので、そのときの状況に応じたコメントができます。「ファンは何が聞きたいのかな?」「どうすれば相手が喜ぶのかな?」と、会場を見ながら発言しているのがわかる。
ファン対応もそうですが、彼のレベルで実践できる人は他競技を含めてもほとんどいないと思います。トップ選手とそうでない選手の差はスキルだと思われがちですが、今はスキルに関する情報を学べる環境はたくさんある。
もちろんスキルも必要ですが、大きな結果を残そうと思ったらスキル以外に人間力も求められると思うんです。彼は人柄も素晴らしいし、競技に対する努力のレベルが頭ひとつ抜けている。大輔は、スキル以外の部分でもチームに多くの良い影響を与えてくれていますよ。
山野代表は「出会いは、ご縁とタイミング。もしチームを発足する時期がズレていたら、選手兼任監督・宮崎大輔は誕生していなかったかもしれない」と語った。
宮崎監督と山野代表は、まさに必然の出会いだったのだろう。ハンドボール業界のレジェンド・宮崎大輔は、アースフレンズBMで新たな伝説を作ろうとしている。
後編では、宮崎監督がチームを指導するうえで大切にしていることや、選手・監督としての目標に迫る。
後編に続く
(取材 / 文:ライター兼編集者 濵崎侃)
(写真提供:アースフレンズBM)
※宮崎大輔の「崎」は「立つ崎」が正式表記