元日本代表・羽生直剛が描く未来図“野心”を活力にチャレンジを続ける
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「プロになっても3年で終わる」
Jリーグで16年、日本代表でもプレーした羽生直剛氏が大学時代に言われた言葉だ。
学生時代は決して順風満帆なキャリアを歩んできたわけではなく、Jリーグでも大きな期待を受けている選手ではなかった。
167cmの小さな身体は不利になることが多かった。
それでも自身を客観的にとらえて何が必要かを考え、リスクを冒しながらもチャレンジすることで困難を乗り越えてきた。
野心を燃やし、周りの雑音を原動力にしてきた羽生氏の根底には恩師・イビチャ・オシム氏からの教えがある。
「『常に挑戦し、野心を持ちなさい。それはサッカーも人生も同じだ』と日々言われてきました。僕を認めてくれて、成長させてくれました」と羽生氏はオシム氏と過ごした日々を思い返す。
客観的に自身と向き合い
考えるサッカーを染み込ませた学生時代
千葉県出身の羽生氏。学生時代は飛び抜けた存在ではなく、市立船橋高校や市立習志野高校のような強豪には進まず、「強豪で埋もれるくらいだったら、出場機会が早いうちからあった方がいいのでは」と考え、自宅からも近い県立の八千代高校に進学した。
当時は長い時間をかけて練習するのが正義と言われた時代。その中で八千代高校の全体練習時間は約2時間。短時間で集中力を研ぎ澄ませて練習に取り組む方法は、現在の指導においてセオリーとされている。
全体練習以外では朝練習も含めて、自主練習で課題に向き合う時間に充て、ここで客観的に自身と向き合うことを学んだという。
八千代高校では全国高校サッカー選手権に14年ぶりに出場し、ベスト8に進出。その後は筑波大学に進み、Jリーガーに憧れを持ちながら教壇に立つことを夢見ていた。
大学ではメキメキと力を付け、大学生3年時頃からJリーグ入りを意識。ユニバーシアード日本代表や関東大学リーグMVPなどを引っ提げ、2002年に当時J1のジェフユナイテッド市原に入団した。1年目から出場機会を与えられ、30試合中23試合に出場。2得点もあげた。
一方で決定機を逃すことが多く、「“裏得点王”と言われていました」と振り返る。試合に出場できる喜びを感じていた一方、プロとしての結果が残せない葛藤と戦ったルーキーシーズンとなった。
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選手の個性を大事にしながら
プレーの幅を広げる指導を展開
勝負と期していた2年目、オフシーズンに羽生氏のプロキャリアのターニングポイントと言える出来事が起きた。
前年のリーグ戦で8位に導いたジョゼフ・ベングロシュ氏が退任。後任としてオシム氏が就任したのである。
外国人のチームメイトからは「練習は厳しいけど、若手にとってはいい監督」と聞いていたが、初日からオシム氏のクセの強さに驚かされることになる。
シーズン開幕前の合宿の途中で合流したオシム氏。昼食時に選手たちと初対面となりスタッフから挨拶を促されたが、選手が座る各テーブルをトントンと叩きながら、無言で部屋を出ていったという。
「やばい監督がきた」
オシム氏なりの挨拶だったようだが、選手たちの印象は決して良くなかった。そしてその後の練習は、羽生氏はリハビリ組だったため参加できなかったが、厳しさはチームメイトの表情からうかがい知れた。
羽生氏が復帰しても強度は落ちることなく、シーズン中でも厳しい練習を課された。その厳しさは身体的なものだけではなく、常に考えながらプレーすることを求められていた。
「厳しい口調で怒られはしますが、『例えばこういうプレーがあった』『こういうコンビネーションの作り方もある』のように考える余白を残して、ヒントを与えてくれました」
オシム氏は「こうするべきだ」と答えを出すことはなく、選手自身の判断を評価しながらもプレーの選択肢を与え、成長を促していった。
そして与えられたいくつかのヒントから選択したプレーが成功すると、手放しに称えてくれた。
また羽生氏はその身体の小ささゆえに「羽生は小さいからあのプレーはできない」「小さいからあの選手の方が良い」と言われ続け、自己肯定感は低かった。オシム氏は羽生氏が小さいことを認め、リスクを冒した上で挑戦する大切さを説いた。成功体験を重ねることで羽生氏の自己肯定感は上がっていった。
この指導法は羽生氏だけではなく、全選手に対して同じだった。「全員を観察してくれて、チーム全体を引き上げてくれました。本当に僕らの成長を願ってくれていました」と羽生氏。
エースだからといって特別視することなく、平等な指導でチームの総合力を高め、その上で個性を許容してくれた。「細かいことも指摘されましたし、厳しさもありましたが、個性を認めてくれるバランスも含めて、僕の中では最高の監督だと思っています」と羽生氏は語る。
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引退後もオシム氏の教えを元に
会社を立ち上げチャレンジを続ける
羽生氏は2018年に現役を引退し、2020年にAmbition22を設立。選手のセカンドキャリアやスポーツと企業や地域をつなぐ支援を主事業として展開しているが、会社の立ち上げにもオシム氏の教えが引き継がれている。
いつか会社を立ち上げることは思い描いていたが、引退直後はFC東京のスカウトに転身。スカウトとして1年目を終えた2019年、オシム氏と再会し、「もっと上を見ろ。空は果てしない」という言葉をもらった。
「引退した人間に対してそんなことを言ってくれるオシムさんはやっぱりすごいと思いました。サッカーはリスクを冒したときでないと点が入りにくい。それは人生も同じで、チャレンジングなことをしたいと思いました」と羽生氏はオシム氏から言葉をもらった1年後にFC東京のスカウト職から離れ、2020年に会社を設立した。
社名にもなっているAmbition(野心)は先述した「常に挑戦し、野心を持ちなさい。それはサッカーも人生も同じだ」というオシム氏の言葉が由来だ。
会社を立ち上げたものの明確に何をやるのか定まっていなかった中、がむしゃらに動き、設立から5年間、ここまで駆け抜けてきた。
「デュアルキャリア」という言葉が一般的になり、現在はJリーグだけはなく多くのプロスポーツで現役選手として活動しながら独自に地域貢献活動をしたり、資格を取ったりと様々な形が存在する。
羽生氏は「『お前はサッカー選手になれない』と言われていたので、1日にも無駄にしないように常に全力でした」と前置きした上で、「他の事業のミーティングだったり、ビジネスの勉強だったりはできる選手はやればいいと思います」と引退後の生活を考えた取り組みを推奨している。
選手の数だけキャリアの歩み方があり、サッカーのようなメジャースポーツだけではなくマイナースポーツも含めれば様々な形がある。どういったバックグラウンドでも、「伴走してあげられるような存在になりたいです」と羽生氏は今後の選手サポートについて見据えている。
その上で、自らの師で2022年に他界したオシム氏を語り継ぐことができるような新たな取り組みも模索している。
「今は組織構築をする仕事も増えてきています。組織の皆さんの本質的な強みを理解し、僕がオシムさんにしてもらったように自己肯定感を上げられるようなチームを作りたいと思います」と自身の経験をブラッシュアップしながら、オtシム氏の思いをつないでいく。
まだ道半ばではあるが、オシム氏からの教えを元に、野心を抱きながらスポーツ選手の可能性を広げる活動を続けていく。
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(写真提供=羽生直剛氏、ジェフユナイテッド市原・千葉)