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ヌーベルベースボールクラブ・藤川七樹「大好きなハナマウイに勝ちたい」

今季からヌーベルベースボールクラブ(以下ヌーベル)でプレーする藤川七樹。ハナマウイ時代には都市対抗野球(東京ドーム)出場を果たすなど、充実した野球人生を送ってきたように見える。しかし、27歳という年齢的にも現役引退が頭をよぎる中、「古巣と戦いたい」という思いを強くして勝負に打って出た。

プロOBの指導を受け続けたことで、20代後半になっても成長している実感がある。

~ NPBのレジェンドも認めた野球への取り組み姿勢

「今でも成長できていると感じるので、どこまで通用するのかを知りたくなりました」

昨年の都市対抗野球予選前、ベンチ入りメンバーから外されることを知らされた。「試合に出られる可能性がゼロになった」ことが移籍への気持ちを後押しした。ハナマウイ創部メンバーで古巣への思い入れは人一倍強く、決断には葛藤もあった。

「ハナマウイでは本当にいろいろなことを学びました。なかでも本西厚博前監督との出会いは本当に大きかった。改めて野球をイチから教わった感じです。高校までの金属から木製バットに変わって対応できなかった時など、打撃を立て直すのに徹底的に付き合ってくれました」

「本西監督が招聘された清家政和コーチ(元西武、ヤクルト)にもお世話になりました。野球の細かい部分や奥深さを教えてくれました。走攻守の全てを教えてくれて、『上達できる伸び代がある』ことを感じさせてくれました」

ハナマウイでは創部当初から控え選手だったが、「上手くなってレギュラーを奪い取りたい」という思いだけは持ち続けてきた。

「野球への情熱や真摯な姿勢には頭が下がる。NPBの選手たちにも見習って欲しいくらい(笑)」

現在は北海道フロンティアリーグ・士別で監督を務める本西氏は、何度となく同じことを語っていた。オリックス時代にイチロー、田口壮と共に「日本一の外野陣」と呼ばれた百戦錬磨を感心させるだけのものがあった。

「ハナマウイと対戦して自分自身に納得したい部分もありました。『少しは上達している』と感じる自分の野球をぶつけてみたいです」

本西厚博監督(背番号78)との出会いが野球人生に大きな影響を与えた。

~野球と人生のバランスを考えながらプレーを続ける

「野球を続けたい、上手くなりたい、という思いだけです」と、今までの野球キャリアを振り返ってくれた。

「高校時代から試合に出ていなかったので、『(独立を含む)プロを目指す』というのは頭にはなかった。大学で勉強も手を抜かずにやりながら就職活動に臨み、その上で野球も真剣にできればとは考えていました」

千葉・松戸国際高では2年秋の新人戦で1試合出場した以外、公式戦出場の機会には恵まれなかった。学業での指定校推薦で東洋大へ進学、体育会野球部への入部はせず学外で野球を続ける道を探した。

「東洋大は東都リーグ所属の強豪、野球部入部の考えはありませんでした。法学部だったのですが、『何かしらの知識を得よう』と授業は真面目に受けました。その上で野球に関してはクラブチームを探しました」

「野球をやるなら軟式の草野球ではなく硬式でやりたい」と思っていたので選択肢はクラブチームとなった。最初に入団したのは実家から電車で通える場所にあった千葉熱血メイキング(以下熱血)だった。

「ネットで調べたら、松戸市で活動する熱血がトライアウトをするということだった。母校(松戸国際高)での練習に参加させてもらい準備できたおかげで合格、2017年11月に入団しました」

熱血入団から約1年が過ぎた2018年12月にハナマウイ創部の話を聞いた。熱血からはコーチを含めて数人が移籍することとなり、藤川にも誘いがかかった。

「熱血では良い仲間に恵まれましたが、怪我もしてしまい現役続行に迷いが出ていた時期でした。ハナマウイは介護を本業とする新規加入チームということで、『もう1度トライしてみようか…』と思って移籍しました」

新規加入のハナマウイは連盟規約で1年間は公式戦参加ができない。怪我の治療と並行してレベルアップを図る日々が続くなか、米国留学の話が舞い込みでカリフォルニア州パームスプリングスへ行く。

「2019年の大学2年が終わった春休みに1ヶ月の語学留学をしました。ハナマウイの練習が本格始動する前なので悩みましたが、語学や文化など、得るものも多かったので良い経験でした」

都市対抗本戦での試合出場機会はなかったが、試合前のシートノックで東京ドームの素晴らしさを感じることができた。

~東京ドームでの都市対抗野球に関する記憶は薄い

帰国後ハナマウイへ再合流、レギュラー奪取を目指して全力を注ぎ込んだ。コロナ禍の最中はリモート授業を受けつつ、バイトを探して野球のためのお金を稼いだ。空いた時間は使用可能な場所を探し練習に明け暮れた。

チームは2020年の都市対抗野球南関東予選を勝ち抜き、創部2年で東京ドームの全国大会出場を果たした。

「今、振り返っても夢の時間だったというか…。嬉しかったのはありますけど、緊張もあった上に試合時間も短かったのであまり覚えていないというのが本音です(苦笑)」

社会人選手(クラブ含む)の誰もが憧れる、東京ドームという夢の舞台。「都市対抗に実際に出場したのかな?」という錯覚に陥ることすらある。

「逆に南関東予選の最後のシーンは明確に覚えています。相手チームの最後の打者が三振で終わった瞬間の喜びは、今でも忘れません。試合出場はできなかったですが、チームの一員として本当に嬉しかったです」

レギュラーとして試合出場することは叶わなかったものの、予選と本戦を通じてハナマウイにとって欠かすことのできない仕事もしてきた。

「ウォーミングアップのメニューを考えて、選手全員をマネジメントするのが僕の役割でした。この仕事は高校時代からやっていたので、ハナマウイ入団直後に当時の主将に話してやらせてもらっていました」

「試合に出なくてもチームに貢献したい、という思いはずっと持っていました」と語る。ハナマウイ退団時に振り返ってみると、オープン戦を含め、これまで約260試合分のウォーミングアップを考えてきたというから驚かされる。

ハナマウイではウォーミングアップの管理やスコア付けなど、裏方としてもチームに貢献した。

~敬意と尊敬の思いを持ってハナマウイと戦いたい

「ウォーミングアップを含め、ハナマウイに多少の形は残せたと思いました。ここから先は自分の野球に集中して、納得、満足する形で現役を上がれる(引退できる)ようにしたい」

多くの経験を積めたハナマウイを離れヌーベルへ移籍することに関しては、「しっかり考えましたが、踏ん切りは意外と早かった」と語る。

「ハナマウイは、お世話になった大好きなチーム。『このチームでやり切って選手を終わりたい』気持ちがあったのも事実。でも、自分の野球人生も限られているので、最後に選手としてどれだけできるかを試したかった」

「自分の中である程度の決断ができた後、本西監督も退任されることを知った。一緒に歩んできた思いがあり心残りだったので、(退任を聞いて)ホッとした感じさえありました」

ヌーベルでは試合に出続けて、ハナマウイに勝つことを目指している。

新たな所属先に選んだのは、現時点では決して強豪チームとは呼べないヌーベルだった。

「『ハナマウイではこの先も試合に出られない』と思いました。自分勝手な選択かもしれないですが、『レギュラーとして試合に出て、自らの実力を試すことで野球人生を全うしたい』と思いました。ヌーベルは、さまざまな環境でプレーしてきた若い選手が多く、目の前の野球に純粋に向き合っている。『ここで新しいスタートを切って、野球をやり終えたい』と感じています」

「僕が言い出した形で、『ハナマウイと対等に試合をできるようになり、最後に勝つ』というのを目標に立てています。チーム内で少し年齢差があるので、常にわかりやすい言葉を選んで話して納得してもらえるように努めています」

「打倒ハナマウイ!」を掲げるのも、前所属クラブへの最大限の敬意と尊敬、そして感謝の気持ちを抱いているからに他ならない。

「今年で選手を終え、ウォーミングアップやチームマネジメントなど、野球を支えられる人間になりたい」と付け加えてくれた。

「今季を選手としては最後」と考えているが、今後も何らかの形で野球に携わっていくつもりだ。

ハナマウイに勝つのは並大抵ではないだろうが、どんな試合も始まってしまえば勝敗の確率は「50:50(フィフティ・フィフティ)」。結果はどうあれ、今はそこに賭けて野球選手として最後の年に挑んでいる。

「『どうやったら上手くいくかを考えるのが面白いし、楽しいんだ』と本西監督が話してくれたことがありました。これは野球のみならず、今後の人生においても僕の支えになるはずです」

師匠とも言える人からの大事な言葉を忘れたことはない。野球を通じて成長し続けているなか、集大成となる今季が終わった時には大きな充実感を得ていることだろう。そこには野球、そしてスポーツをする本来の意義すら感じさせてくれる。藤川が挑むラストイヤーに注目したい。

(取材/文・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ、ヌーベル)

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