疾患による現役引退も「ポジティブに」~元Wリーグ・外山優子のバスケ人生(前編)

「引退当時は本当にショックでした。立ち直るのに3年もかかりましたから。でも、引退は今の私にポジティブな影響を与えていますよ」

元Wリーグ選手の外山優子(とやまゆうこ)さんは、心臓の疾患が判明したことで2016年3月に現役を引退した。しかも、Wリーグでキャリアをスタートさせた1シーズン目の終わり、バスケを人生でもっとも楽しんでおり、オールスターにも選ばれた矢先だ。
※国内女子バスケの最高峰・バスケットボール女子日本リーグ

しかし、外山さんは現役引退について「ポジティブ」だと話す。

そう言えるようになった背景には、バスケ人生における一つひとつの決断と行動がある。彼女は、一体どのような道を歩んできたのだろうか。そして現在、どのような未来を見据えているのだろうか。

外山さんの波乱万丈なバスケ人生を紹介する。

才能が故に孤独を感じていた中学生時代

外山さんは、秋田県横手市の出身。後に全国レベルの選手として活躍する彼女は、地元では特別な存在だった。

バスケを始めたのは、小学校4年生のとき。6年生で出場したミニバスケでは、チームを全国大会ブロック3位に導き、このころから類い稀な才能を見せていた。同時期に何気なく始めた走り幅跳びでは、全国5位に輝くほどの多才ぶりだ。

一方で、心の中では孤独を感じていたという。才能が故に特別扱いされ、試合中にミスをしても「ユッコ(当時の外山さんの愛称)なら仕方ない」と周囲から遠慮がちに流されることが多かったそうだ。

中学校は地元の公立校だった。全国レベルの強豪校には程遠かったが、ミニバスケのメンバーが軒並み同じ学校に入学したこともあり、2年時の新人戦では県3位。外山さんは中心選手としてチームを引っ張っていた。

しかし、最後の大会では自身のミスも影響し、県大会の1回戦で敗退。これが当時の外山さんを変える出来事となる。

「大会直前の紅白戦で、私がボールを取られたのに一生懸命戻らなかったんです。しかも、自分は悪くないかのように振る舞って。典型的な天狗になっていました。でも、そのとき顧問の先生が真正面から怒ってくれたおかげで、最後の大会も自分のせいで終わったことを実感して。バスケはチームスポーツなんだと認識させられましたね」

外山さんは、小さいころから特別扱いされていたことで、独りよがりになっていたと振り返る。そんな自分に「バスケがチームスポーツであること」を気付かせたのが、当時の顧問だった。

中学校時代のバスケは不完全燃焼のまま終えたが、選手としての振る舞いを見つめ直し、高校進学のときを迎える。

「1週間後、愛知に行くぞ」父親の一言から日本最強校に

バスケの強豪校へ行くために、高校は元々県外を希望していた。SNSが発達していなかった当時、雑誌で「日本一」の称号と共によく目にしていたのが、後に進学する桜花学園(愛知)だ。

外山さんが小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、「Wリーグでプレーすること」。桜花学園は、後に日本代表となる髙田真希選手や渡嘉敷来夢選手を中心に、高校女子バスケ界で圧倒的な強さを誇っていた。桜花学園への入学は、夢を叶えるためのベストな選択肢だったのだ。

桜花学園1年時の外山さん(左)

しかし、桜花学園はスカウト式で選手を獲得する方法が一般的。県大会1回戦で敗退した選手に、日本トップのチームから声がかかる可能性は限りなく低い。

そんなとき、父親から驚くような話をされる。

「1週間後、俺と一緒に愛知に行くぞ」

桜花学園への憧れをよく口にしていた外山さんを見て、両親がトライアウトを懇願する手紙を出していたのだ。

【以下、両親が送った手紙の一部を抜粋】
切に願う娘のため、ご無礼と存じましたが、筆をとらせていただきました。私共夫婦は、叶うならば先生にお目にかかり、娘のバスケットボールプレイを直接見ていただきたいと思っております。
私共は桜花学園高等学校バスケットボール部で技術を学びたいという娘の気持ちに少しでも応えてあげたいという一心で、ご無礼と思いましたがお手紙を書かせていただきました。
※内容を考えたのは父、文章を書いたのは母

手紙のことは、父親に告げられるまで全く知らなかったというから、本人も驚いただろう。外山さんは、今の自分があるのは両親の存在が大きいと感じている。

「私のバスケ人生における一番のターニングポイントは、両親の手紙かなって思います。両親の思い切った行動がなかったら、私は桜花学園に入っていなかっただろうし、Wリーグの選手にもなっていなかったかもしれない。本当に本当に、感謝しています」

両親の手紙をきっかけに突然幕を開けた、日本最強校への挑戦。1週間後、外山さんはトライアウトを受けに愛知へ行く。スカウトを受けて入部する選手が多い中、トライアウトから入部できるのはごくわずかだと聞いていた。

「トライアウトは二泊三日で行われて、練習やゲームをしました。必死すぎて、正直記憶は曖昧なんです。でも、練習の雰囲気がとても良くて、楽しかったことだけはハッキリと覚えています」

憧れていた学校でのトライアウトを楽しんだ外山さんは、見事に桜花学園への入学を勝ち取った。

先生や先輩、同期、桜花学園では全員が当たり前のように「日本一」を目指して練習していた。同じ志を持つ仲間と高め合う中で、以前に感じていた孤独は、いつの間にか解消されていたという。

トライアウト組から史上初のキャプテンになるも、残ったのは“後ろめたさ”

日本最強校で実力を着々と伸ばしていた外山さん。1、2年生で合わせて5回の日本一を経験し、自身も定期的な出場機会を得ていた。1年生のときは、同期4人で第1回アジアビーチゲームズ(アジア地区のビーチスポーツ総合競技大会)のビーチバスケに出場し、優勝を果たす。
※1シーズンに開催される高校バスケの全国大会はインターハイ・国体・ウインターカップの3つ

アジアビーチゲームズでシュートを放つ外山さん

周囲からの信頼も厚かった外山さんは、2年生の冬にはキャプテンに指名される。トライアウトから入部した選手がキャプテンになったのは、桜花学園の歴史を見ても外山さんが初めてだった。

「驚きのあまり、キャプテン就任が決まった場面のことはほとんど覚えていないんです」

高校女子バスケ界トップレベルの選手がそろう中で、自分がキャプテンになることは全く予想していなかったという。

しかし、キャプテンとしてチームを率いた期間は、外山さんにとって決して明るい思い出ではなかった。この間、桜花学園は一度も全国優勝を果たせなかったのだ。

「正直、最後に一番強く残っていたのは後ろめたい気持ちでした。結果を残せなかったことはもちろん悔しいし、キャプテンとしての役割から逃げていたんですよ、私。日本一に向かってチームをまとめるにはどうしたら良いか。その目標のためにキャプテンとしての振る舞いを考えて仲間を引っ張ることが、全然できていませんでした」

日本屈指の名門校を一度も全国優勝に導けなかったこと。中学3年生のときと同じように、大事なところでキャプテンとしての役割を果たせなかったこと。外山さんの中に残ったのは、桜花学園とバスケへの後ろめたさだった。

高校卒業のころには、Wリーグの選手になる夢を諦めていた。

山形大学を経て日立ハイテククーガーズでWリーグデビュー

桜花学園を卒業後は、東北地方でトップクラスの強豪である山形大学に進学。当時の山形大学を率いていたのは、日本女子バスケ界のレジェンドともいえる大神雄子選手の父・大神訓章氏だ。トップレベルの実業団やWリーグチームとの練習、海外遠征。4年間のうちに多くの経験をしたと振り返る。

大学3年時の外山さん(左から2番目 桜花学園OGと日本学生選抜にて)

「大学4年間でバスケは終わりにするつもりだったんです。教師を目指そうと思っていました。桜花学園時代に感じたバスケへの後ろめたさがずっと残っていて、すっかり自信がなくて。でも、大学時代の経験を通してバスケの楽しさを再確認して、もう一度Wリーグを目指そうと決めました」

1年生のときから試合に出ていた外山さんは、その後もチームの中心選手として活躍し、中学・高校と同様に、最終学年ではキャプテンに。そして、チームを東北地区大学選抜大会の10連覇に導いた。

外山さんの活躍を見て獲得に乗り出したのが、日立ハイテククーガーズだ。大学卒業と同時に、外山さんはついにWリーグへ足を踏み入れた。

夢への道を進むきっかけとなったのは、両親が送った手紙。しかし、その道を切り開いてきたのは、間違いなく本人の努力だ。才能が故に孤独を感じていた少女は、ひたむきに自らの道を進み、夢を実現させた。

しかしこの1年後、外山さんは競技からの引退を余儀なくされる。

中編に続く

(取材 / 文:フリーライター 紺野天地)
(写真提供:外山優子さん)

フリーライター。誰かにとっての「道しるべ」を書き記すことをテーマに、形にとらわれずに生きる人・団体を取材しています。エッセイやコラムも執筆。

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