住田は叫ぶ、特別な場所で ーたったひとりの陸上部員、住田選手(砲丸投)の挑戦ー 前編

庄原特別支援学校 住田選手と松山先生が二人で描く放物線

 広島県庄原は山間の市として、島根・鳥取・岡山各県に通ずる。広島中心部からバスで約2時間。のどかさの残るこの地で今、飛躍を遂げようとしている一人のアスリートが居る。    

 住田英樹、17歳。フィリピン生まれ、広島県庄原育ち。日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれ、5歳まではマニラ近郊で過ごした。当時の鮮明な記憶はないが、今でもタガログ語は話せないまでも相手がどのようなことを話しているのか、なんとなくは分かるのだと、彼は言う。

 「本当に分かるのかよ?」と微笑みながら疑問を投げかける人がそばにいた。松山直輝、34歳。住田さんの通う学校の教師であり、砲丸投の競技者である住田さんのコーチでもある。大学在学時より児童養護施設にて勤務、東京学芸大学大学院を修了後は中学校で教職に就いて数年を過ごした。その後、早稲田大学スポーツ科学学術院にてコーチングを学び、プロバスケットボールのBリーグ・シーホース三河ではアカデミーの統括を担いつつ、バスケットボール選手にスプリントやジャンプパフォーマンスを指導するフィジカルコーチとして指導にあたるなどの経験を積み上げた。近年ではI C T(スマホ・パソコン・ウェアラブルデバイス)を活用した運動能力の向上に関する論文を発表している。庄原に教師として着任したのは2019年のことである。

 学校は「広島県立庄原特別支援学校」と言う。心身に障害を持つ者や病弱である者に教育を提供する場として40年以上の歴史を持ち、住田さんはこの学校に通う高等部2年生である。難しい読み書きやスケジュール管理が苦手であることを始めとする軽度の知的障害を有し、運動面では身体を意のままに操るために必要な認知機能が弱い。ただし、中学生の時に受けた知能テストで知能指数が認定基準を上回ったことで障害者手帳(療育手帳)を返却して以来、審査を改めて受けていないため、今は手帳を所持していない。

 公的に障害者ではないから健常者と言えるのか、そこは社会の判断に任せるとして、今日伝えたいのはそこではない。競技者として成長を続けるアスリート、住田英樹についてである。

 砲丸投競技を通じて自らの障害と向き合い成長を続ける17歳と、住田さんの特徴を見抜き、飛躍のきっかけを掴めるようにICT活用を始めとする様々なアイデアを出しながら寄り添い続ける松山先生、まさに二人三脚で目指すインターハイ出場、そして世界大会への夢について話を伺った。

一人だけの部員、でも独りじゃない

「陸上種目が苦手」な陸上競技者の話

 住田さんが陸上に出会う経緯は至ってありふれたものだった。小学校時代は外遊びが好きで、学校の休み時間には鬼ごっこやかけっこを友達と楽しんでいた。身体を動かすことが好きだった姿を見て、教頭先生が「中学では陸上競技を」と勧められるがままに最初に挑んだ短距離走種目は、それまでの遊びとは打って変わって楽しくなかった。他の生徒の方が圧倒的に速く、ほとんど太刀打ちできなかったからだ。松山先生によれば、多くの知的障害者がそうであるように、住田さんは「運動の認知に関する部分が弱く、うまく身体を動かすのが苦手」。このため彼は、楽しかったはずのかけっこも短距離走を始めとする多くの陸上競技について不得手と感じるようになった。「競技」としての短距離走となった時、競技に必要な「走り方」を会得するのに時間がかかり、周りの部員との差がつきやすくなったのだそう。

 急激に運動への楽しさを見失いかけていた頃、何気ない気持ちで砲丸投に出場した。想像と異なり、重さ5キロ(中学時)の砲丸は遠くへと放物線を描きながら「(他の選手よりも)距離を出せた」。砲丸投がしっくりきた瞬間だった。

 住田さんはそこから砲丸投にのめり込んでいき、これまでの大会の表彰状やトロフィーがところ狭しと自宅に並ぶまでになった。彼は直径2.135mの小さな円の中に、自分の居場所を見つけることができたのだ。のめり込む理由は、競争相手と互角に戦えることや勝ち抜く楽しさだけではない。大会の雰囲気そのものが好きなのだと言う。

 大会は予選と決勝で構成されている。予選と決勝それぞれで3回の投擲(とうてき)があり、出場する各個人のベスト記録において上位8人が決勝へと進むことができる。投擲毎に与えられる約10分間のインターバル、刻々と更新されていく競争相手の記録を頭に入れ、逆転に必要な距離と直前の投擲で感じた課題と求められるフォームをイメージし、全身の感覚を研ぎ澄ませていく。そのプロセスや環境が大会でしか味わえない「楽しさでもある」のだ。

 ただ、そんな楽しさを手に入れることが出来たのは、庄原特別支援学校で松山先生に出会ってからしばらく後のこと。それまでは、成績がついてこない、思ったような練習が出来ないと悩む、苦闘の時期を過ごしていた。

中学校時代の住田さん。まだ松山先生と出会っていない。

ある日、住田は叫んだ

 庄原特別支援学校は、障害を有する者の社会的自立を促す教育の場である。全国の特別支援学校のうち、約6割が運動部を設けており、庄原特別支援学校にも設けられている。しかしそれは健康増進を目的として運動強度の低い運動を30分程度の短時間行うことが主であり、大会に出るなどの競技としての部活動というものがなかった。陸上競技部もないし部員もいない。もちろん顧問も居ない。部活を理由とする下校時間の延長も出来ないから、練習時間は15時過ぎから門限の17時までと短く、更に平日のみである。決して恵まれた環境ではなかった。それでも、砲丸投を極めようとする住田さんと松山先生は、手始めに陸上競技部を立ち上げ、砲丸など最低限必要なものは買い揃え、足りない器具は自作で準備するなど何もない環境の中で様々な取り組みに挑戦してきた。

自家製バーベルでトレーニング中の住田さん

 例えば、筋力強化の為にとバドミントンやバレーボールの支柱を改造して自家製のバーベルを拵(こしら)えた。本物のバーベルと違って重量は50キロ超までしか加えることが出来ない。重心が不安定なためにフラつきやすく一層気を使わないといけない。補助役の松山先生の負荷もかなりのものだが、同世代の砲丸投の有力選手はベンチプレスで100キロ以上は楽に挙げてくる。大会前までに出来る限り重たい重量を安定して挙げられることを目指さなくてはならない。それでも、先生に言わせれば「ベンチプレス50キロそこそこしか挙げられない人で砲丸を11メートル以上投げられるのは住田選手だけ」。筋力を向上させた上できちんとした身体の使い方をマスターすれば、まだまだ成績が伸びていく可能性を彼は秘めている。

 練習計画も彼の得意なこと・苦手なことに合わせて作り込んでいく必要があった。身体を思いのままに操るという能力と「考えながら動く習慣」を身に付けさせるためにと、松山先生は大学院で学んだことやシーホース三河での経験を生かしながら、常に正しい姿勢・重心で様々な方向へと走り込む“切り返し運動”を始めとした基礎的なトレーニングを軸とした身体能力の向上に力を入れ、競技力向上に必要な土台作りを進めていった。

 投擲に必要な技術と体力を、平日5日間の中でバランス良く組み立てられたルーティーンで着実に引き上げていく。それでも平均して2時間弱の練習ではやはり足りなかった。

 自宅での自主練を試したが最初はうまくいかない。住田さんは、学内練習での気づきを自宅に持ち帰り、ノートに書き記そうとするが、言語化が苦手ゆえに筆が進まず、そのうちに感覚的なイメージはするりと身体を抜け出してしまうのだった。ノートを学校まで携えることも試したが、今度はノート自体を家に忘れてしまう。

 意欲はある、なのに、もがき、「色々なことを試していくたびにかえって大雑把になっていく」。そんな心と脳の仕組みがぶつかり合う日々が極限に達した時、彼はこう叫んだ。

「今までだと、僕はだめだ!」

 成長したいと切に願う。それがままならない、少年の痛切な叫びだった。

後編に続く

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