住田は叫ぶ、特別な場所で ーたったひとりの陸上部員、住田選手(砲丸投)の挑戦ー 後編
特別なパートナーと創る、特別な練習
直径約2mの円の中に自分の居場所を見つけることができた住田選手。それでも、なかなか飛躍のきっかけはつかめず、成績は伸び悩み、自己嫌悪に陥ることもあったという。
松山先生は、なんとか住田選手の個性・特徴に合った練習方法はないかと模索を続け、二人はやがて特別なパートナー達と共に飛躍へと繋がる練習法を見出していく。
そしてその先にある競技者としての夢。
後編では、住田さんと松山先生の努力の軌跡と将来への展望を伺った。
特別学校で起きた、特別なこと
悩める住田さんの為に。松山先生が試したのは練習ノートの電子化だった。スマートフォン上のメモアプリに練習の合間に気づいたことを書き込んでいく、もし忘れてしまったとしても学校のiPadから書き込めば良い。気づきがフレッシュなうちに、イメージをメモに残し、家ではそれを基に練習を組み立てた。
それでも、習慣化には今一歩という時、先生が次に目を付けたのは、最新のスマートフォンに実装されている動画撮影機能・タイムラプス機能だった。通常の動画をそのまま撮り貯めても松山先生は見切れないから、進捗を大まかに見ることに割り切って、タイムラプスでコマ送りの練習模様を確認するようにした。彼自身にとっても、“見られる練習”として緊張感を持てるため、家でも効率的な練習が行えるようになってきた。それまで家では全く練習できなかったことで、息子のひたむきな努力の姿を知らなかった父と母にも徐々に住田さんの熱量が伝わり始めた。歯車が少しずつ、噛み合おうとしていた。
学校で住田さんを暖かく見守っていたのは松山先生だけではない。数人の先生が住田さんの練習に顔を出すようになった。彼らはフラリとやってきては、何気なく砲丸を放った。だが、それは大抵、住田さんが放つそれよりも遠くに飛んでいくのだった。彼らは先生であると同時にアスリートでもあったからだ。
バスケットボールで国体に出場経験のある先生、棒高跳で日本選手権に出ていた先生、サッカー選手だった先生。偶然ではあるが、何人ものトップアスリートがこの学校に教師として集まっていた。彼らは全く競技経験のない砲丸投であってもサラリとこなしてしまう。愉快な道場破りがそこでは日毎に繰り返されており、受けて立つ住田さんは得難い練習パートナー達からの刺激を独り占めしていた。
気づけば、住田さんはプロチームのアカデミーを率いた人間から最新・最先端のスポーツ指導を施されるだけでなく、素晴らしい練習パートナーまで近くにいるようになった。全てが住田さんに向けられており、庄原特別支援学校にはまさに“特別”な練習環境がたった一人の陸上部員の為だけに整っていった。そうして、「住田英樹」の快進撃が始まった。
庄原発―インターハイ経由―パリ行き、そして社会へ
高等部一年生の時には際立った記録ではなかった。そこから日々の練習を効率よくこなしていくことで、フォームが固まっていき、力強さも出てきた。大会に臨む際にも、意識すべきポイントを明確にすることでインターバル中の思考の質とメンタルが安定し、成績は飛躍的に伸びていった。
記録会・地区大会及び広島県高等学校対抗陸上競技選手権での主要記録を見ると、
・20年8月 9m72cm
・20年8月 9m09cm
・21年6月 9m29cm ※砲丸重量7.26kg
・21年8月 9m85cm
・21年8月10m82cm
・21年9月11m57cm(6位入賞)
たった1年で2m近くの記録更新、直近の県大会では決勝進出と入賞を果たした。今秋のインターハイ出場までに必要な距離は残り2m前後となった。残された時間は決して多くはないが、心技体のうち、まずは「心」と「技」は一段階上のレベルまできている。あとは「体」、砲丸をより遠くに飛ばすためのエネルギーを生じさせる筋肉の器を大きく出来ればチャンスは十分ある。松山先生と住田さんは急ピッチで更なる肉体改造に取り掛かっている。
そうしてインターハイに出る、目指すは入賞。ではその先の夢はなんだろう?残すは「夢は、パラリンピックに出ることです」。恥ずかしがり屋な雰囲気からハッキリとした意志が現れてきた。
パラリンピアンになるためには、まず日本知的障がい者陸上競技連盟の定める強化指定選手に選ばれる必要がある。住田さんの最初のターゲットはU-20強化指定選手になること。そのためには13.61m(7.26kg)をクリアしなくてはならない。
例えインターハイにおいて14m(6kg)近くの投擲が実現したとしても、簡単に辿り着ける目標ではない。今までよりもアスリートとしての成長曲線をより高みへと描く必要がある。絵空事にも見えるはずだが、不思議なことに、「住田英樹」ならば24年のパラリンピック(パリ大会)出場は夢に終わるのではなく、辿り着くべき場所なのだと周囲に思わせる雰囲気、一体感がある。
パリ行きのチケットを得るには、競技以外にも様々な手続きが必要だ。まず、日本知的障がい者陸上競技連盟への選手登録のために、療育手帳かあるいは公的機関が発行した証明書が必要となる。
療育手帳の支給基準はIQ70以下、パラリンピックなどの国際大会が要求する「最小の障がい基準」はIQ75以下とされており、住田さんはその境界線上の中で、自分が何者であるのかを示す必要がある。また、パリパラリンピック出場や競技の為だけではなく、改めて手帳取得に必要な審査を受けるつもりだ。そう遠くない将来のこと、学校を卒業し働く自分をイメージした時、やはり手帳が必要だと考えているためだ。
知的障害は、時として外からはすぐには分からない障害だ。分からないから、当事者が抱える生きづらさがある。住田さんもずっと生きづらさと隣り合わせであった。それでも、素晴らしい競技と先生や世代を超えた仲間達との出会いが彼の背中をグッと後押しし、彼自身に社会で生き抜く力強さを与えている。
住田選手が投げかけるもの
筆者は、取材前には“困難な環境下で頑張る住田さん”という先入観に囚われていた。しかし、いざ取材をしてみると、自らの課題と向き合い、工夫を凝らしながら作り上げた練習内容は“健常者”が中心となる部活動の中でも卓越した内容であり、多くの子供達にとって参考になり得る。松山先生と共に作り上げた素晴らしい練習環境は、どこであっても誰であってもスポーツを楽しむことができる、成長することができることを示している、とは言えないだろうか。
住田さんが今後、活躍すればするほど、それは特別支援学校に通う多くの子供達が持つ可能性にスポットが当たり、より豊かな障害者スポーツ環境とより多くの競技者人口が形成されるきっかけになり得るのではないか。すでに、庄原特別支援学校の中等部では、住田さんの練習する姿を見て刺激を受けた生徒が、高等部ではやり投をやりたいと言っているそうだ。まだ小さくとも、確実に社会的インパクトの始まりがそこにはある気がする。
もはや、この物語は“特別だとか特別じゃないとか”のありきたりな枠で語られるべきものではなく、そこにあるのは一人の素敵なアスリート、「住田英樹」についてである。
今、ありとあらゆる境界線を遥かに超えて、砲丸は遠くへと放たれようとしている。