「フェンシングの裾野を広げるために」-上原康士朗氏の新たな挑戦に迫る-
2021年7月30日、東京オリンピックでとある競技の決勝戦がおこなわれた。フェンシング男子エペ団体。
この日、日本チームはROC(ロシア・オリンピック委員会)を破り、悲願のオリンピックチャンピオンに輝く。同種目での金メダル獲得は、史上初の快挙であった。
そんな晴れ舞台で活躍するオリンピアンに刺激を受け、第2の人生をスタートさせた男がいる。
上原康士朗氏、30歳。かつて、日本のエペ競技を引っ張っていたのは間違いなく彼であった。世界カデ選手権第3位、ハンガリー選手権7回優勝をはじめ、上原氏が残してきた戦績は目を見張るものがある。
「僕は一度フェンシング競技から離れたんです。でも、オリンピックでの活躍を見て、フェンシングへの熱い想いが蘇りました。これからは、フェンシング競技を普及する活動に取り組みたいです」
上原氏は、2022年2月下旬にフェンシングの小規模クラブを立ち上げる。今回の取材では、上原氏のフェンシング人生と未来にかける熱い想いに迫った。
フェンシング競技の現状
――東京オリンピックでの活躍を見て、フェンシング人気も高まりそうですね。フェンシング競技の現状をお伺いしてもいいですか?
上原氏:オリンピックでの活躍により、各メディアやマスコミもフェンシングの話題をよく取り上げてくれるようになりました。一定の需要は増えると思っていて、実際に新規参入する方も多い印象です。
――フェンシングはマイナー競技という印象を持っている方も多いと思います。競技人口はどの程度なのでしょうか?
上原氏:2019年のデータによると、フェンシング協会の登録者数は約6,000人です。今回のオリンピック効果で、新たに600〜1,000人ほど競技人口が増えると推測しています。
前回盛り上がりを見せた2012年のオリンピック大会後は、競技人口が約10%増えました。でも、フェンシングって新規参入者の継続率が低いんですよね。僕は大きく3つの理由があると思っています。
――フェンシング(エペ)が普及しない3つの理由を詳しく教えてもらえますか?
上原氏:私が思うに練習場不足、大会不足、指導者不足の3つです。例えば練習場に関しては、1都3県で活動しているクラブが約30クラブあります。
このうち平日17時以降で月曜日から金曜日まで運営しているクラブは、たった数クラブしかありません。高校や大学の部活に所属する以外、フェンシングを続ける環境が十分に整っていないんです。
フェンシング競技が普及しない背景には、日本特有の課題もある
――上原さんは、ハンガリーでフェンシングに出会ったそうですね。海外と比較した際に、日本独自のフェンシング文化等はあるのでしょうか?
上原氏:フェンシングには「エペ」、「フルーレ」、「サーブル」という3つの種目があります。このうち世界で最も競技人口が多いのはエペなのですが、日本ではフルーレが主流なんです。
誰もが簡単にルールを理解できるエペに対して、フルーレは長年フェンシングに携わっている私ですらルールを把握しきれていません。初心者にとってルールの理解が難しいという点は、競技参加への敷居を高くしている原因の1つです。
ほとんどの日本人はフルーレからフェンシングを始めるため、エペ/サーブルを正しくレッスンできる指導者が足りていないという現状もあります。
そして、日本は試合をできる環境が少ない点も課題です。例として、ハンガリーでは高校生のカテゴリー(カデ)になるまで年間15〜20試合をおこないます。
一方で、日本フェンシング協会が主催の大会は高校生のカテゴリーで年間3〜5試合です。試合数が少ないと、選手がモチベーションを保つのも難しいですよね。実際、高校生までに競技を離脱する人数は、全体の約2~3割と言われています。
上原氏とフェンシングの出会い
――練習場不足、大会不足、指導者不足。これらの課題があるのなら、そもそもフェンシングに触れる機会も少なそうですね。上原さんは、どのようにしてフェンシングと出会われたのですか?
上原氏:私の両親は、ハンガリーで日本食レストランを経営していました。そこにお客さんとして訪ねてきたのが、ハンガリーで選手権指導者としてフェンシングに携わっていた日本人の方だったんです。
父親に勧められ、最初は遊び半分・ダイエット半分でフェンシングを始めました。
――上原さんは、ハンガリー選手権で計7回優勝されています。ご自身がここまで結果を残せた理由はどういった点にあるのでしょうか?
上原氏:私はハンガリーにある世界的名門クラブの出身です。そこには世界チャンピオンをはじめ、指導者としてオリンピックメダリストを多数輩出した方もいました。
恵まれた環境の中で夢中になって練習した甲斐もあり、10大会に出場すれば9割は優勝するぐらいの実力がつきました。
指導をハンガリーのコーチに仰いだ結果、世界カデ選手権でのメダル獲得に至りました。エペの中では日本人初の快挙だったみたいです。
――海外選手を見ると、体格の大きな選手が目立ちます。上原さんは身長170cmとのことですが、体格で劣る相手に勝てた理由はどこにあるのでしょうか?
上原氏:フェンシングは、戦術次第で体格の大きな相手にも勝てるスポーツだと思っています。現に、東京オリンピックでも身長173cmの加納虹輝選手がエペ団体の金メダリストになりました。
戦術が肝となるスポーツなので、相手との駆け引きが上手になってからが一段と面白くなります。たとえ体が大きくない子どもでも、世界で勝てる可能性は十分あるんです。
フェンシング競技の普及に向けて
――日本でフェンシング競技が普及するには、さまざまな課題を乗り越えていく必要がありそうです。そのような中、上原さんは今後どのような取り組みをされる予定でしょうか?
上原氏:まずは、練習できる環境を提供したいと考えています。今年から始める小規模クラブでは、「初心者教室」と「競技力向上教室」の2軸で展開予定です。
初心者教室では、小学1〜4年生の未経験者を対象にフェンシングの楽しさを伝えたいと思っています。競技力向上教室は、フェンシング経験者が対象です。世界で活躍したい選手に向けて、個人レッスンを提供します。
――上原さんの指導には、どのような特徴があるのでしょうか?
上原氏:私のフェンシングは、ハンガリーがルーツです。日本ではフルーレの指導から始めることがほとんどですが、世界では専門種目から始めるのが基本なので、私はエペを指導します。
少し専門的な言葉になりますが、ハンガリーは「捉えるスタイル」が基本です。相手の力を利用して自分の攻撃に活かします。フルーレの指導から始めると、フルーレの癖が染みつくため、この「捉えるスタイル」をエペで戦える形にするのが難しいんです。
――小規模クラブでは、エペでの指導が中心ということですね?
上原氏:私がエペの選手だったこともあり、私のクラブではエペしか指導しません。
エペは、5分でルールを理解できる競技です。世界でエペの競技人口が多い理由も、ルールが単純明快だから。まずは「フェンシングを楽しむきっかけ」を作ることが大事だと思っています。
例えば、私のクラブでは子どもたちがフェンシング競技に取り組む姿をSNSへアップします(了承を得た方のみ)。カッコよく剣を握る子どもの姿を見ると、親御さんも嬉しいですよね。
あと、フェンシングは「お金がかかるスポーツ」とイメージされやすいのですが、実は初心者の方が野球を始めるのと変わらない程度の費用感なんです。
要望があれば道具をお貸しすることもできますし、まずは気軽にフェンシングを楽しんでもらいたいと思っています。
――上原さんは、教え子がW杯へ出場したり男子個人で全日本3位に輝いたりと、指導実績も豊富です。上原さんの指導が、多くの子どもたちに届くと良いですね。
上原氏:競技力を向上したい方については、出張指導も承っています。先日も関西まで指導に行きました。私自身も、日本全体の育成に関わりたいと思っています。必要に応じて、全国どこにでも行きますよ。
あと、私は上原流の指導だけに染めるのは好きじゃないんです。もし他のクラブで練習したいなら、自由に参加してもらっていい。色んな環境に触れる中で、その子なりの形を見つけてもらえたら嬉しいですね。
パイプもたくさんありますし、興味がある子どもたちには他のクラブも紹介したいと考えています。
オリンピックで注目を集めたフェンシング。上原氏は、「需要がある今だからこそ、競技の普及に注力することが大事なんです」と語る。
彼は、フェンシングの裾野を広げるために、会社員を辞めてまで第2の人生をスタートさせた。
「基本からみっちり指導すれば、世界選手権に連れて行くことはそう難しくない」
世界選手権で日本人初のメダルを獲得した男の言葉は、自信に満ち溢れていた。
(取材 / 文:ライター兼編集者 濵崎侃)
(写真提供:上原康士朗さん)