大きな挫折を糧に新体操普及に取り組む高橋亜季の“家庭に1本のリボン大作戦”とは?
「新体操を気軽にやってもらえるスポーツ、遊びにしていきたいんです」
こう力強く語るのは、新体操の北京オリンピック強化選手に選ばれていた高橋亜季さん。現在は福岡と東京を拠点に、新体操の教室・サザンティンカーベルを開校している。
フェアリージャパン(新体操日本代表の愛称)の活躍で注目されることが増えた新体操だが、高橋さんの言葉を借りれば「競技として浸透していない」のが現状だ。そうした状況を変えるべく、“家庭に1本のリボン大作戦”という企画を打ち立てたり、親子で楽しめる環境作りに励んだりと普及に力を入れている。
そんな高橋さんだが、競技において大きな挫折を経験している。波乱の競技生活や新体操への思いから、高橋さんが考える新体操の可能性を紐解いていく。
楽しさと美しさを追求し、過程を大事にした現役時代
秋田県で生まれ、6歳のときに新体操を始めた高橋さんだが「本当はバレエをやりたかったんです」と笑う。近所のお姉さんたちが楽しそうに踊っているのを見て「バレエ教室に入りたい」と母に伝えたが、いざ見学に行くとそこは新体操の教室だったのだ。「新体操の方がお金はかからないというのが理由です」とのことだが、母親も高校で半年だけ新体操をしており、「もしかしたら私にやらせたかったのかもしれませんね」と言う。
思いがけない形で始めた新体操ではあったものの、ボールやリボンを使いながら踊ることに楽しさを感じ、メキメキと上達していく。高橋さんにとってこの“楽しさ”が新体操に関わっていく上で重要な要素であり、指導者である現在も最も大事にしているものである。
「とにかく『綺麗で美しい演技がしたい』『見ている人が感動する演技ができたら』とやっていました。フェアリージャパンに入りたいというよりも綺麗に踊る、表現を楽しむ気持ちが強かったです」と自身のパフォーマンスの延長線上に結果が出ればと考えていた。その結果、中学1年から日本代表の強化選手に選ばれ、高校2年時には地元の秋田国体で優勝した。
しかし、当の高橋さんは「勝ちたい気持ちが全く無かったんです」と言う。指導者から勝つための指導を受けており、チームメイトも勝ちたい気持ちが強かった。対して、「踊りで自己表現できるのが楽しかったです」と高橋さん。勝って楽しさを感じることは少なく、結果ではなく過程を大事にしていたあまりギャップを感じることは多く、「勝ちたいという気持ちはとても足りていなかったと思います」と当時を振り返る。
そんな学生時代だが、中学1年時から強化選手として様々な指導を受け、最も印象に残っているのは中学3年間、毎冬にロシアで行った合宿。世界的な強豪であるロシアの選手たちは日本の選手以上に勝利を目指す厳しさがある一方で、指導者と選手が対等の関係にある。高橋さんは秋田にいた頃の指導者から褒められたことはなく、コミュニケーションも必要最低限でしかなかった。しかしロシアでは選手から指導者に演技についての要求があったり、競技を離れても指導者と選手の距離間が近く、私生活のちょっとした悩みを相談したりと、家族のような間柄だった。
厳しさの中にも愛情があり、この経験が後に指導者としてのモデルになることになる。
突然訪れた現役引退 コミュニケーションの大切さを実感
将来を嘱望され、2008年の北京オリンピックの出場も視野に入れていた中、悲劇は突然訪れる。元々いろんな箇所に痛みを抱えながら競技に取り組んでいたが、秋田国体終了後に症状が酷くなったことで精密検査を受けるとリウマチだったことが分かったのだ。
「痛みがあることを相談はしていましたが、私も周りもまさか若い人がリウマチになるとは思っていませんでした」と競技を続けることが困難になり、高校2年生で現役を引退した。「悔しさより絶望の方が強かったです。家族といる時間よりも新体操をしている時間の方が長かったので」と振り返る高橋さん。
年齢的には選手として“これから”という時期。一緒に練習をしてきた日本代表の仲間が活躍している姿を見聞きすることで悔しさは増幅し、この感情を消化するのに10年近くかかった。「『あのときしっかり調べていたら』とか『リウマチがなかったら、どんな選手になっていたんだろうか』とどこか悔しかった気持ちはずっと持っていると思います」と踊りで表現をすることが好きだった高橋さんにとっては悲劇的な出来事だった。
ただ、このとき感じたことこそロシアで学んだコミュニケーションの重要さだった。「日本では痛みがあることが当たり前という指導を受けていました。ですが、私が痛みをそこまで主張できなかったことも悪循環につながりました」と高橋さん。ロシアでも痛みを抱えながら競技に励んでいる選手はいるが、積極的にコミュニケーションを取っていることで指導者とも痛みの共有ができているケースが多い。
続けて「選手は痛みを抱えていても本番で練習の成果を出さないといけないと思い、どうしても頑張ってしまう。痛みやケガは気合で治るものではないので、指導者は細かい痛みにも耳を傾けなければいけないと思います」と自身の苦い経験を、指導者になった今は教訓にしている。
2019年に開校した教室では、新体操本来の楽しさを教えることはもちろん、子どもたちとの会話を意識しながら指導に当たっている。褒めることも意識しており、保護者からは「もっと厳しくしてください」と言われることもあるようだが、「大人になっても花丸をもらうと嬉しいと思うんです」と成功体験から自信や楽しさを感じてもらい、自らの意志で競技に向き合えるような姿勢を養っている。
「新体操に支えられてきたので、嫌いになったことはありません」と選手生命が絶たれた絶望を糧に、自身の経験とは180度違う指導をしている高橋さん。自身の新体操に対する愛情を、未来のフェアリージャパンになり得る子どもたちに伝えている。
新体操で新たなコミュニティを作り、裾野の拡大を目指す
現役引退後から教室を開校するまで、高橋さんは短大で幼児教育を学んだり、出産をして子育てをしたりと、様々な経験をしてきた。その間、他の元選手が新体操の普及のために活動をしていたが、現状注目されにくい競技であるために進んでいない状況だ。
高橋さんもそんな状況に歯がゆさを感じており、教室を開いて以降、積極的に多くの人の目に触れられるように意識をしている。野外のイベントや発表会を企画するなど、体型が細かったり身体が柔らかかったりしないとできないという新体操のハードルの高さを変えるべく、誰にでも親しんでもらうことが狙いだ。
しかし、こうした取り組みの中で挙がったのは高橋さんと同年代のママさんから出た「私もやってみたかった」という声。小さい頃、新体操をやりたくてもやる環境がなかったり、子どもが始めて「一緒にやってみたい」と影響を受けたりと、“憧れ”を持っているママさんが意外にも多かった。
そこで親子クラスを月1回のペースで設けると、多くの親子が参加してくれた。ここから高橋さんは“家庭に1本のリボン大作戦”のイメージを膨らませ、この企画を進めていくことになる。文字通り、家庭に1本リボンを置いてもらい、サッカーや野球のように気軽なスポーツにすることが狙いだ。子どもはもちろん、新体操をやりたくても様々な事情でできなかった大人にもリボンを親しんでもらう。「お休みの日に家族みんなで遊べるような感覚になってほしいです」と話す。
またこの親子新体操が新たなコミュニティを生んだことも、企画を進めるきっかけになった。「私が子育てをしているとき、孤独を感じました。孤独を感じながら子育てをしているママさんはいると思うので、新体操をきっかけに少しでも楽になってくれたら」と、教室で集まる際にママさん同士で子育ての意見を交換する場が自然と生まれた。
この成功体験をシニアに置き換え、50歳以上を対象にしたクラスを福岡県大野城市で開校する。「新型コロナウイルスの影響で外に出ない方が多く、加えてお子さんが巣立って寂しく過ごされている方も多いと思う。そういう方々が少しでも外に出るきっかけ、地域の人と交流をする場になってくれたらと思います」と新体操が人と人をつなぐツールになっていることを実感している。
こうした活動を通して、「私にできること」と高橋さんが言うのが競技人口の拡大である。現状、新体操の“育成”に携われるのは日本代表として世界的に実績を残した人たち。病気によってその機会を絶たれてしまった高橋さんは“普及”の観点から新体操に向き合っていく。
「まずは裾野を広げて原石をキャッチしていく。いい子がいればオリンピック選手に育てていきたいです」と意気込む。普及への道のりで決して平坦ではないが、自身の苦い経験を教訓に変え、大好きな新体操に貢献をしていく。