「エースは投げ続けるための理由を探す」ハナマウイ平野暖周

ハナマウイ・ベースボールクラブの右腕投手#19平野暖周。

2020年に都市対抗野球出場を果たした注目チームの大黒柱は、野球人生の岐路に立っている。

現役引退して次の道を歩み始めるのか。チームに残り今一度マウンドに上がるのか。

大きな決断を迫られているエースの胸中に迫った。

「現役引退を決めかねています」

8月末の第46回全日本クラブ野球選手権(以後クラブ選手権)、ハナマウイは準決勝で全足利クラブ(栃木)に「4-6」で敗退。優勝チームに与えられる社会人野球日本選手権(京セラドーム)への出場権を逃した。

平野は今シーズン限りで現役引退する気持ちを固めていた。プロ野球選手を目指していたが、27歳という現実的問題がある。野球を辞めた後の人生設計も立てなければならない。クラブ選手権優勝、日本選手権出場を花道に後身へ道を譲るつもりでいた。

大事な場面を常に託されてきたのが平野だった。

~公式戦敗退の原因と責任

「チームの現状が如実に現れました。一番は野球に対する向き合い方です。根性論は好きではないですがギリギリまで追い込む厳しさが足りなかった。1つのプレーに対する執着心の差を感じました。技術面も含め、個々に足りないものがあるから選手層も厚くならなかった」

創部2年で都市対抗出場を果たしたことで、全国から選手が集まるようになった。チームは順調に前進しているように見えたが現実は甘くなかった。「自分にできることが他にもあったのではないか?」を考えると葛藤が襲ってきた。現役としてプレーしながら指導することの必要性を感じ始めている。

「最近は練習時にコーチ的役割も任され、数人の指導を受け持っています。投手として自分が必要だと感じるものを伝えています。上達したいという気持ちは伝わってきますが、方法や考え方などがわかっていない投手も多い。もう少し早い時期から色々と伝えていれば、大会に間に合ったかもしれないという後悔が出てきました」

2020年の都市対抗野球では見事な投球で存在感を発揮。

~コーチングスキルを学んだ父から受けた影響

野球に関しては専門知識を持つ父(維敏氏)の影響が大きかった。平野の幼少時代にはプロ選手が足を運ぶような練習施設に足を運び、コーチングを学ぶような人だった。家に帰ればメカニクスやコンディショニングに関する具体的な指導を行ってくれるコーチ(=父)がいた。

「野球一家のような感じで、兄も親戚もやっていたので僕も自然に野球を始めた。小学2年時『どういう気持ちで野球をやるんだ?』と聞かれ、『プロを目指す』と答えた。少し言わされたような感じもあったのですが、その気持ちを常に持ってプレーしてきました」

「お金を払ってまで野球のコーチングを学んでいました。技術を正確に理解している父に見てもらえたのも大きかった。投手としてできていない未完成な部分を、常に知ることができました。これができるようになればもっと良くなる、と思い練習に打ち込めたのが大きかったです」

~楽天・松井裕樹は雲の上の存在ではない

本格的な投手練習を始めたのは神奈川・相洋高へ進学してから。部活時間はもちろん、帰宅後も父に指導を受けながら基礎固めを続けレベルアップを果たす。同学年の楽天・松井裕樹(桐光学園)との対戦も多く、神奈川大会では2年夏「4-6」、3年夏「2-4」と惜しくも敗戦。プロ注目左腕の実力を見せられたが、同時に自らの可能性も感じた。

「松井のボールはエグかった。スライダー投手のイメージが強いけどボールが浮き上がるようでした。こういう投手がプロになるんだと思いました。同時に、『やり方次第では近いボールを投げられるかもしれない』と感じました。投手として右肩上がりの感覚が出始めた時期でしたから。『今の実力は違うけど、自分に適した練習を重ねれば可能性はある』と思いました」

神奈川・相洋高時代には松井(楽天)と投げ合って刺激を受けた。

~山あり谷ありの野球人生を経てハナマウイへ

高校卒業時にはプロから声はかからず、大学進学を決意する。某私立大の野球部セレクションに合格していたものの、一般入試で不合格だったため地元の桐蔭横浜大へ進学。プロ、企業チーム等へ多くの選手を輩出する強豪大学で更なるレベルアップを目指した。

「進学先の変更もあり野球部には少し遅れて入部しましたが、上り調子だったので秋には一軍へ上がれました。少しずつ技術を伸ばせて大学3年春くらいになると、以前から父が言っていたことの多くができるようになりました。球速も148キロくらい出るようになり、投手としての成長が形となって現れ始めました」

同時期に斎藤友貴哉(社会人・ホンダから阪神)などが在籍していたこともあり、平野の存在もプロ側スカウトの目に止まった。しかし4年に入り大幅に調子を崩したため声はかからなかった。社会人ではSUNホールディングス(埼玉)へ進んだが、環境等を考慮して移籍を決意、ハナマウイ入団に至った。

桐蔭横浜大では最速148キロを記録するほどに成長した。

~プロを諦める現実と直面

ハナマウイ1年目からエースに君臨、都市対抗出場に大きく貢献する。本大会では初戦の四国銀行戦(高知市)に先発、「0-1」と試合には敗れたものの8回を1人で投げ切ることで評価を高めた。将来のプロ入りを信じ、同年オフは練習に明け暮れたがパフォーマンスは下がる一方だった。

「都市対抗で僕の存在も多少は認知してもらえたと思います。プロ入りのために勝負のオフだったので冬場は追い込んだのですが、うまく行きませんでした。落ち続けていた球速に歯止めが効かない。プロへ行くには明らかに遅過ぎます。投げるたびに現実を感じて、プロは厳しいと実感しました」

「将来のことも考え始めました。できるなら野球に携わる仕事をしたかったので、指導者になりたいと思いました。その場合には企業チームでのプレー経験があった方が絶対に良い。将来の職業のためにも企業チームでプレーしたいと思い始めたのもこの時期です」

在籍2年目の2021年はチームとして結果を残すことはできなかった。しかしJFE東日本(千葉市)補強選手として声がかかり、個人として2年連続都市対抗出場を果たす。短期間ながら企業チームに参加、本大会の大阪ガス戦では先発するなど、大きな経験を積むことができた。

「企業チームは個々の意識が高くて雰囲気が素晴らしかった。この中で鍛えれば、野球選手として伸びると感じました。その後、『非公式ながら企業チームが興味を持っている』という話を聞きました。できれば移籍したかったのですが、多くの都合が重なり行き着きませんでした。チームに残る決心をしつつ、翌2022年限りで引退の決意を固めました」

エースの存在はチーム全体に大きな影響を及ぼす。

~今が投手としての成長期

「今年の都市対抗予選で負けた後、今まで様々な場所で教わった中から共通していることを探し出して試してみました。『クラブ選手権へ向けてやってみようか』くらいの気持ちでしたが、投球全体が良くなった。技術的にも少しずつですが確実に伸びている実感があります。感覚も良かったので、投げるのが楽しみな状態でクラブ選手権に臨めました」

引退を決意して臨んだ今季、シーズン途中で良い意味での開き直りができた。投球フォームの試行錯誤を行い、実験的要素を加えたところハマり始めた。チームとしての結果は残せなかったが、オフシーズンが迫った今も投手としての成長期を感じている。

「投手として発展途上なら、もう少し投げてみたい。そしてコーチとして指導する時にも、現役で投げているのは説得力が増すはずです。言葉足らずでも僕の投球内容を見て感じること、伝わることも多いと思います。若い選手がそういったことを求めているのなら、現役を続ける必要性もあるのかなと思い始めました」

「改めてハナマウイを強くしたいとも感じました。技術、メンタルの両方で中途半端なことをしないことが重要。言い訳は作ろうと思えば作れる。周りは変えられないので自分が変わるしかない。チーム全体がそうなれば大きく変わると思う。あの時やれば良かったでは遅い。企業チームに参加して痛感しました。そういった経験全てを還元できるなら、現役を続ける意味もあるはずです」

どのような道を進むのか、平野の動向から目が離せない。

「(来年も投げているか?)わからないです。乞うご期待ください(笑)」

自身の可能性をもう少しだけ信じたい。ハナマウイをもっと強くしたい。

2つの強烈な思いが進路決定を悩ませている。しかし表情明るく笑い飛ばす姿には、今季開幕時のような暗さは全くない。明るい光が見え始めた平野の将来が楽しみだ。

(取材/文・山岡則夫、取材/写真協力・ハナマウイ・ベースボールクラブ)

関連記事