「スタメン10人中6人」が宮崎の高校出身―東北公益文科大硬式野球部で高め合う“宮崎勢”の熱い思い
先日、何気なくSNSを眺めていると、「東北公益文科大硬式野球部に宮崎の高校出身者がたくさんいる」との情報が目に留まった。東北公益文科大は山形県酒田市にある私立大学。情報が正しければ、約1000キロ離れた地から多くの選手が集まってきていることになる。私自身、新聞記者だった頃に約3年間宮崎の高校野球を取材した経験があり、気になったので調べてみた。
きっかけは「宮崎キャンプ」
東北公益文科大が所属する南東北大学野球連盟の秋季リーグ戦は、9月3日に開幕した。開幕日の試合結果を確認すると、たしかに東北公益文科大のオーダーには宮崎の高校出身者が複数、名を連ねていた。
1番・佐澤深志外野手(2年=日南学園)、3番・福山凜内野手(3年=日章学園)、4番・林田昂也内野手(4年=日章学園)、5番・松田光記内野手(4年=日章学園)、7番・宮城宏朗外野手(2年=小林西)、先発投手・瀧本蒼太投手(4年=宮崎日大)。投手を含めたスタメン10人中、実に6人が該当する。また選手名簿を見ると、他にも多数在籍していることがわかった。その中には福岡や沖縄が出身地の選手もいるが、いずれにしろ九州出身者がほとんどだ。
翌週の10日、第2週の会場であるSOSO・RETECならはスタジアム(福島)に足を運ぶと、この日の石巻専修大戦でも同じ6人がスタメン出場していた。
「選手たちはいろんな遠いところから、いろんな思いで来てくれている」。試合後、横田謙人監督に話を聞くと、そんな言葉が返ってきた。東北公益文科大は2001年創立で、硬式野球部が強化指定部になったのは2013年という新興野球部。宮崎のみならず、関東や中部などあらゆる地域から選手が集まり、徐々に力をつけてきた。中でも近年、宮崎の高校出身者が多く入学するようになったきっかけは、横田監督の経歴と関係していた。
横田監督は以前、同じ山形県内にある羽黒高校で指揮を執っていた。2005年には選抜で山形県勢初の4強入りを達成。その当時、キャンプを行うために訪れていたのが宮崎だった。宮崎はプロ野球のキャンプ地として有名だが、温暖で快晴日の多い気候がキャンプ地として適していることから、アマチュアチームからの人気も高い。横田監督はこの時に宮崎県内の高校野球指導者と関係を深め、のちの選手勧誘につなげたのだという。そんな指揮官のもと、慣れない土地で日々野球に励む選手たちを取材した。
宮崎で味わった悔しさは東北で晴らす
10日の試合は息の詰まる投手戦となり、東北公益文科大は7回に奪った1点を守り切り辛勝した。その1点は、開幕戦から1番を任されている佐澤のバットから生まれた。一死一、三塁、カウント3ボール1ストライクから投手の前に転がす絶妙なバントヒット。「緊張したけど、しっかり決めることだけを意識した」。派手ではないが価値のある大仕事をやってのけ、塁上で白い歯がこぼれた。
佐澤を最後に取材したのは、忘れもしない2020年5月20日。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、甲子園の中止が決定した日だ。当時、日南学園の主将だった佐澤は、グラウンドに駆けつけた報道陣の取材に応じてくれた。落胆し、涙に暮れるチームメイトを代表して、目を真っ赤にしながらも冷静に胸の内を明かしてくれた姿が強く印象に残っている。
あれから2年。「甲子園がなくなった悔しさをぶつける」思いで大学野球に打ち込んでいる。東北の冬は寒く、夏も宮崎より平均気温は低いもののジメジメした暑さに見舞われる。宮崎生まれ、宮崎育ちのため、山形に来て初めて見た雪には恐怖さえ感じた。それでも「宮崎の人が多く、やりやすかった」と話すように、チームには入部後すぐに溶け込んだ。「チームの主役になれるような、タイトルをたくさん獲れる選手になる」。そう誓う目は希望に満ちあふれていた。
初志貫徹の「3年生主将」
3番を打つ福山は、3年生ながら主将を務める。日章学園時代にも主将を任され、3年春には選抜を経験。初戦敗退となったものの「1番・二塁」でスタメン出場し、安打を放った。
福山は高校時代から、打撃以上に守備の意識を強く持っていた。大事にしているのは「一歩目と周りへの声掛け」。この日は序盤に守備機会が多く訪れたが、軽快なステップと正確な送球で先発の瀧本を助けた。また守備位置は二塁から三塁に変わったが、守備の時間に大きな声を張り上げ味方を鼓舞する姿勢は高校の時と変わっていなかった。
「主将として高校時代にやっていたことを大学でどれだけやれるか」。最上級生ではない上、冬は室内練習でのトレーニングしかできないなど練習環境も大きく異なる。宮崎にいた頃よりも難しい立場だが、野球人としての信念が揺らいでいないことはプレーからひしひしと伝わってきた。
“戸郷世代”最強スラッガーの現在地
福山は尊敬する2人の先輩を追って入部した。日章学園で一学年上だった林田と松田だ。秋季リーグ戦は林田が4番、松田が5番を打ち、日章学園の3人でクリーンアップを組んでいる。
中でも「エースで4番」だった林田は、当時からプロ注目の逸材だった。侍ジャパンU-18と壮行試合を行った宮崎県高校野球選抜では戸郷翔征投手(当時・聖心ウルスラ、現・読売ジャイアンツ)、小幡竜平内野手(当時・延岡学園、現・阪神タイガース)らとともにプレーし、4番を任された。
プロ志望届を提出するも指名はなかったが、「横田監督のもとでいろんなことを学んで力をつけたい」と進学した大学では1年次から秋に3割超の打率を残すなど自慢の打棒を発揮してきた。高卒でプロ入りした戸郷、小幡は早くも一軍の舞台で活躍中。「自分も負けないように、1日でも早くプロの世界で頑張りたい」と刺激を受けている。卒業後は社会人野球に進み、さらなる高みを目指すつもりだ。
東北に挑んだ左腕の成長
エース左腕の瀧本は林田、松田と同級生だが、宮崎日大では3年次に故障し不完全燃焼で高校野球を終えた。「好投手の多い東北に行ったら自分はどのように成長するのか」と考え、宮崎日大からは初めて東北公益文科大に進学。「高校の時のライバルと一緒に野球をやれているのは嬉しいこと」と話すように、楽しみつつ、切磋琢磨しながら実力を磨いてきた。
実際に東北では様々なタイプの好投手を目の当たりにし、同じチームからプロに進んだ石森大誠投手(現・中日ドラゴンズ)、赤上優人投手(現・埼玉西武ライオンズ)からはトレーニング方法を参考にするなど多くのことを吸収した。
10日の試合では持ち前の打たせて取る投球を披露し7回無失点。速球派右腕の多い南東北大学野球の中で、変化球を駆使した技巧派投球が際立っている。
野球の世界に限らず、進学のタイミングで地元を離れることは珍しくないが、環境の大きく異なる土地でそれまで以上の努力を続けることは容易なことではない。九州と東北、どちらの生活も経験した一人として、信念を持って己を磨く彼らの生き様に敬意を示したい。
(取材・文・写真 川浪康太郎)