「30歳の壁」超えて プロへの夢、タイで挑む~サッカー加藤亮選手の挫折と挑戦

Jリーグでは多くの選手が30歳を前にプロの舞台を去る。誰もが1日でも長くプロ選手として活躍したい。だが、毎年新人選手が加入し、その中で生き残っていかなければならない。同じ実力なら伸びしろがある若手が優先される。セカンドキャリアを考えて早く引退し次の道に進む選択肢もある。様々な葛藤や不安を抱えながら多くの選手が30歳を前に引退していく。

一方、30歳にしてタイでプロサッカー選手を目指すのが加藤亮選手。7月にタイでプロリーグに所属するクラブのトライアウトに挑戦するも、契約には至らず。12月に再びトライアウトに挑戦、プロサッカー選手の夢に挑む。

大学時代はクラブチームでプレー。社会人では教員の仕事とクラブチームでのプレーを両立した後、ドイツでセミプロのクラブに所属してプレーした。異色の経歴を持つ加藤選手の挑戦とその想いに迫る。

子供のころから根っからのサッカー好き~夢はJリーガー~

加藤選手は滋賀県で生まれ育ち、小学校入学と同時に地元のスポーツ少年団でサッカーを始めた。大学までサッカー選手だった父とその影響でサッカーを始めた兄がおり、サッカーを始めたのは自然な流れだったという。

サッカーを始めた後はどっぷりはまり、Jリーガーを夢見るサッカー少年になった。転機は小学校6年生のとき。スポーツ少年団の監督の紹介でJリーガーも輩出した県内の強豪クラブの入団テストに挑戦。無事合格して、中学卒業までプレーした。

しかし、クラブでは常に劣等感を感じていたという。「自分よりうまくて、体も大きい選手がいる。このまま強豪校に進学しても通用しないと思っていました」と振り返る。

中学卒業後は、県立の八幡商業高に進学。劣等感を持ちながらも「いつか見返してやる」とハードな練習に明け暮れた。夜10時まで自主練習していたという。そんな加藤選手に試練が訪れたのは2年生になる直前の春休み。シュート練習中に足を捻り、右膝前十字靭帯と半月板を損傷する重傷を負った。医師からは「オーバーワークも影響している」と言われたという。

3年生になると副キャプテンとしてチームを引っ張る立場になった。全国高校選手権を目指して予選に挑むも「1回戦で負けて、挫折感、虚無感が残った」という。「怪我の影響でまともにプレーできた期間の方が少なかった」こともあり、悔しさが残る、そして不完全燃焼の3年間だった。

加藤選手は家族の影響でサッカーを始めた

大学ではサッカー部に入部できずクラブチームでプレー、そしてプロへの挑戦

京都の私立大学にAO入試で合格、入学後はしばらくサッカーから離れていた。「プロ選手の夢は諦め、別の道へ行こう」と思っていたからだ。再びサッカーへの情熱を取り戻したのは10カ月後。大学のサッカー部の門をたたいたが、強化クラブに指定されスポーツ推薦で入学した学生だけで活動していたため、加藤選手は入部を許されなかった。それでもサッカーをやりたい気持ちが変わらず、高校時代の顧問や卒業生から勧められ、クラブチームでプレーした。

大学時代はクラブチームでプレーした

サッカーへの情熱は卒業後の進路選択にも影響した。プロを諦め、進もうとした道は高校教員。部活動の顧問としてサッカーに関われるからだ。高校時代に劣等感を感じていた時、サッカー部の顧問が前向きになれるきっかけを与えてくれたことも理由の一つ。「自分も人に影響を与えられる存在になりたい」と考えた。教員免許取得に必要な単位の取得や教育実習、そして教員採用試験に向けた勉強。それらをこなしながらクラブチームでのプレーも両立、卒業後は無事、教員となった。

教職に就いた後もサッカーへの情熱は消えることはなかった。選手としてサッカーを続けクラブチームでプレー。大学時代にクラブチームでプレーした経験も活き、教員の仕事と両立した。「朝早く出勤して、仕事を終えるとすぐ練習。22時ごろまで練習して翌日も朝早く出勤というハードな日々でしたが、充実はしていました」と言う。

ハードだったが充実していた教員時代

クラブには様々な背景を持つ選手・スタッフがいた。元Jリーガー、海外でプレーした選手。Jリーグで指導経験を持つスタッフ。彼らとの出会いによってサッカー選手としての成長を実感し、サッカーへの思いが強くなった。「周囲に助けてもらいながら両立できていたが、見方を変えると中途半端。元々自分はサッカー選手になりたかった。今の自分ならサッカーに全てをかけたら面白いのではないか」、そう考えたという。サッカーが好きでひたすらボールを追い続けてきた加藤選手が、自信を掴み再び上のステージに挑んだ。ドイツへの渡航を決めたのは25歳の時だ。

ドイツを選んだ理由は中学時代の友人がプレーしており、情報が入手できたこと。そして世界有数のサッカー強豪国であることだ。まず友人に代理人を紹介してもらい、クラブのテストを受け、セミプロのクラブでプレー。「将来、指導者になるためサッカー強豪国のサッカー文化も含めて学ぼうと思いました。語学学校に通い、地元の人たちとの交流も大切にしました」。

ドイツではサッカー以外の時間も大切にした

再び加藤選手を襲った怪我、最後は活動資金が無くなり帰国

しかし、ドイツでもサッカー選手としてのキャリアを築くことはできなかった。トレーニング中と試合中に高校時代に怪我をした個所を再度負傷し、2回手術。2年10カ月滞在した中で満足にプレーできたのは高校3年間と同じく6カ月程度だという。「怪我をすると治療やリハビリにお金がかかり、契約が切れると収入もなくなる。最後は怪我が完治せず、契約が切れて収入がなくなりました。ドイツに残るなら大学進学や就職という選択肢もありましたが、サッカーをするためにドイツに来たので、帰国することを決めました。『お金がないとサッカーができない』ことを実感しました」。

収入を得るため、そして怪我をした膝を完治させるため、加藤選手は日本に帰国した。

ドイツには2年10カ月滞在、プレーできたのは6カ月程度だった

指導者としての安定した日々を捨てプロに挑戦

帰国後は岐阜県のサッカークラブで指導者の職に就き、岐阜県や愛知県の生徒を指導した。「好きなサッカーの仕事ができて、生徒が上達する姿、そして生徒や保護者が喜ぶ姿を見るのは楽しかった。ドイツ人と一緒に仕事をする機会もあり、ドイツ滞在時に学んだ語学や知識も活かせた。充実はしていましたが、安定した日々で『成長していない』と思うようになりました」という。

日々のサッカー指導の中で新たな経験、知識を得て成長はしていたはずだ。しかし加藤選手はこう続けた。「私は今まで厳しい状況で日々ピリピリしている雰囲気の中で、成長してきたと思っています。もちろん生活が安定していることは良いことだと思いますが、(それを求めるのは)今じゃない」。

怪我をした個所も回復し「今なら体が動く。まだやれるから挑戦したい」という思い再び芽生えた。多くの友人が「そう思うなら挑戦した方がよい」と後押ししてくれたという。

30歳、タイでのトライアウトに賭ける

加藤選手は再び12月にタイでトライアウトに挑む。タイのリーグは外国人枠が多く、日本人選手も活躍している。熱帯で冬の寒さがないことは故障歴のある加藤選手にとってプラスだ。そこで契約を勝ち取れれば半年間プロリーグでプレーするチャンスが得られる。そしてその後も契約継続を勝ち取り、プレーしたいという。

「実績は残せませんでしたが、夢を諦めない気持ちと困難な状況の時こそ成長できる機会と捉えていく考え方でこれまでやってきました。もし今の目標を達成することができれば、劣等感を感じている人、夢を諦めている人に何か伝えられるのではないかと思っています」というが、こうも続けた。「私のようなキャリアは決して真似して欲しくはない。サッカー選手として活躍するなら、サッカーに専念できる環境に居続けることが一番」。

サッカーだけに集中できる環境でプレーできた時間はわずかだった。怪我をしてサッカーができない時期もあった。それでも諦めなかった加藤選手が発した言葉だけに重みがある。だが加藤選手は諦めないだけが取り柄の選手ではない。膝前十字靭帯や半月板を損傷する重傷を負い、3度の手術を経ても現役選手として「まだ体が動く」と言えるだけのパフォーマンスを発揮できる。治療、リハビリに時間と費用をかけ、徹底した自己管理をしてきたはずだ。それができる自己管理能力、意思の強さは間違いなく加藤選手の強みだろう。

治療とリハビリによって怪我を克服、再び選手として動き始める

選手としてのキャリアをどこで終えるかはサッカー選手として、人間としての価値観そのものだ。加藤選手は30歳で安定した生活を捨て、新たな挑戦を選んだ。この経験を加藤選手はどう活かしていくのだろうか。トライアウトの結果はもちろん、セカンドキャリアにも注目したい。

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