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野球選手は「第二の人生」をどう設計する? JR北海道元監督・狐塚賢浩が語る社会人野球

多くの球児はプロ野球選手を志し、どこかのタイミングで夢を諦め、ユニホームを脱ぎ、やがて第二の人生を歩み出す。中でも、高卒3年目、大卒2年目という「ドラフト指名解禁年」が設けられており、学生野球のような明確な「卒業」のない社会人野球の選手は、その「タイミング」の見極めを迫られる。

都市対抗野球大会に選手、監督、コーチとして計20回出場したJR北海道野球部(2017年からはJR北海道硬式野球クラブ)元監督の狐塚賢浩さんは、「プロを諦めた後に何をやるにしても、真剣に考えて、プロセスを踏んで、一生懸命練習した日々があれば、成功する確率は高くなる」と口にする。かつて所属チームの休部・廃部を経験し、現在はキング運送株式会社(北海道石狩市)の代表取締役を務める狐塚さんの言葉には説得力がある。

挫折の度に目標設定「現時点のやるべきことに全力を尽くす」

狐塚さんの野球人生は挫折の連続だった。

山梨・巨摩高、駒澤大を経て、「2年でプロに行く」ことを目標に社会人野球のたくぎん野球部(札幌市)へ。区切りの2年目までは学生時代と変わらない「野球100%」の生活が続いた。しかしプロ入りの夢は叶わず、以降は目標の軌道修正を繰り返すようになる。最初に切り替えた目標は「全日本の選手になってオリンピックに出場する」。だがそれも届かず、次は「都市対抗10年連続出場選手になる」を目標に据えた。

大学卒業後はたくぎん野球部でプレーした

順調に出場を重ねたが、8年連続出場がかかる1996年、たくぎん野球部が運営母体である北海道拓殖銀行の経営悪化を理由に休部。「噂はささやかれてはいたけど、野球部とスキー部はなくならないだろうと思っていた。ある日突然、野球部長から休部を伝えられてショックだった。野球の夢はここで終わったんだな、と」。突如、「野球0%」の生活を送ることになった。

複数の企業チームから声がかかったものの、家庭を持っていたこともあり移籍は選ばなかった。この時は「銀行員として成長して支店長になる」という目標を立て、仕事に邁進した。狐塚さんは「休部を経験して、自分がいくらもがいても変わらない事実があることを知った。『ついていないな』『やってられない』とふさぎ込んだままでは生きていけない。休部を転機に、今の自分にとってベストな次の選択をして、現時点のやるべきことに全力を尽くすスタイルになった」と話す。

1年半の銀行員生活ののち…「ベストな選択」続け叶えた目標

その後も狐塚さんは「ベストな選択」を続ける。一度野球から完全に離れて1年半銀行員として勤めたのち、1998年、発足したばかりのサンワード貿易硬式野球部に入部。30歳を過ぎていたが、「あと2回、どうしても選手として都市対抗に出たい」と復帰を決めた。1、2年目に補強選手として出場を果たし、実質の「10年連続出場」を達成。ようやく目標にたどり着き、翌年からはコーチに転身した。

2005年、サンワード貿易硬式野球部も廃部を余儀なくされる。今度はスポーツ店で働く傍ら、胸に秘めていた「社会人野球の監督になりたい」という目標に向け、女子野球日本代表のコーチを務めるなど指導実績を積んだ。

2010年、JR北海道から声がかかり監督に就任。9年間指揮を執り、チームを7度都市対抗に導いた。その9年間は選手の野球人生をも背負う月日だった。

活動休止も乗り越え…徹底させた「仮説を立てて検証」する日々

監督時代は「日本の現代野球の常識を疑ってかかり、100年後の常識になるようなことを発見したい」との思いで試行錯誤を重ねた。技術面や戦術面はもちろん、画期的な野球との向き合い方や考え方についても選手に提示した。

中でも徹底して求めたのは、「仮説を立てて検証し、増やした引き出しをたくさん開けて当たりを見つける作業」。狐塚さんはこの作業が「第二の人生」にも直結すると考えた。「遠くに飛ばすとか速く投げるとか、上手くなることだけに固執してただ漠然と野球をするのではなく、どういうプロセスを踏めば上手くなれるか自分なりに考えられる選手は、野球を辞めて仕事に入っても早いスピードで追いつける」。複数の業界で結果を残してきた狐塚さんが身をもって証明した考えだ。

JR北海道の監督として7度都市対抗の舞台に立った

就任2年目の2011年には、石勝線特急列車脱線火災事故による活動休止を経験。この年のドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスから1位指名を受けた当時のエース・武藤好貴が都市対抗1次予選で7回ノーヒットノーランをやってのけた直後の出来事だった。

それでも、「自分がいくらもがいても変わらない事実」を知る狐塚さんの心は折れなかった。選手たちの絶望を理解しつつ、「引き出し」を増やす日々に戻るよう仕向けた。当時、狐塚さんが周囲に漏らした「休部・廃部じゃなくてよかった」という言葉は本音だという。

「野球を通じて仕事と、家族と、地域と向き合う」先にある未来

「プロを諦めて吹っ切れた後、とにかく野球を極めようとする人もいれば、指導者を目指す人や社業に力を入れる人もいる。さまざまな選択肢がある中で、野球を通じて仕事と、家族と、地域と向き合う。いろいろな立場で、いろいろなことを考えながら絡み合っていく。それが社会人野球だと思う」

狐塚さんは紆余曲折を経た今、社会人野球をそう捉えている。加えて、「結局、野球がすべてではない。『野球を通じて』でしかない。それぞれの与えられた場所で一生懸命、考えながら全力でやることがその後の人生につながる。社会人野球は訓練の場なのかもしれない」とも力を込める。

社会人野球は「訓練の場」だと考えている

セカンドキャリアを歩む元野球選手を取材すると、「野球しかやってこなかったので苦労しました」という声をよく耳にする。だが、仮説を立てて検証する「訓練」を重ねていれば、おのずと未来は開ける。それは野球の世界に限らず、すべての人生に置き換えられることではないだろうか。

(取材・文 川浪康太郎/写真 狐塚賢浩さん提供)

読売新聞記者を経て2022年春からフリーに転身。東北のアマチュア野球を中心に取材している。福岡出身仙台在住。

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