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林弘佑希(ハナマウイ)、都市対抗出場と亡き友への思いを胸に何かをやってくれる男

実力者揃いで注目を集めるハナマウイ・ベースボールクラブ(千葉県富里市)。打線の中心としてチームを牽引するのが林弘佑希(コウキ)だ。

大阪、宮崎、横浜、埼玉を経てたどり着いた千葉で実力を十二分に発揮。プロテスト参加を打診されるまでの選手に成長を遂げた。都市対抗出場へ強烈な執着心を抱くスラッガーは、亡くなった仲間の分まで野球に対し真剣に打ち込んでいる。

都市対抗出場と亡くなった元チームメイトへの思いを抱き野球に臨む。

~25歳でのプロテスト受験が都市対抗への思いを強くした

「プロテスト失敗しても野球に対する自信が揺るがなかった」

昨秋、初めて受験した某球団プロテストは苦い経験に終わった。25歳、年齢的にもラストチャンスと思っての挑戦。自信があった打撃ではシート形式で1安打しか打てず、野球選手としての現在地を悟った。しかし心折れることなく都市対抗出場という次の目標へ気持ちを切り替えた。

「プロテストは2年前にも話がありました。その時は都市対抗の予選直前で本大会に出場するのが最善だと思って受験しませんでした。本大会に出場すれば黙っていてもプロ側から注目されますから。今回は可能性を増やすためにテスト受験しました。自分自身の中で野球に対する手応えや自信が出てきて気持ちの変化もあったからです」

「一芸を持っている選手ばかりが集まっていました。野手なら守備はそこそこでも打撃はすごい。投手なら打てそうもない決め球があった。力が及ばずレベル差も知りましたけど、それすら楽しく感じました。これをプラスにしたいと本気で思った。テストが終わってすぐ『来年、都市対抗に出たい』と切り替わっていました」

長打力、確実性、勝負強さを併せ持った頼りになる打者。

~日本中を渡り歩いて磨き上げた野球技術

大阪府堺市出身、本人曰く「中学時代はそこそこ」で強豪校への進学は叶わなかった。甲子園出場を第一目標にしていた林少年は宮崎・日南学園への越境留学を選ぶ。

「大阪では大阪桐蔭、履正社に行かないと甲子園出場可能性はゼロに近い。それ以外では地方への進学を選ぶ選手がほとんどです。宮崎に行くとは思っていませんでしたがセレクションを受けました。日南学園は自分に合っていて身体も大きくなり技術もつきました。試合には出られなかったですが甲子園出場もできました」

全寮制での3年間、食事などで肉体改造ができ野球選手としての素地ができた。大学でさらにレベルアップを図ろうと思い進学したのは桐蔭横浜大だった。

「大学では試合に出て実力を伸ばそうと思いました。だから身の丈にあった大学を選んだ感じです。大学2年から試合出場しましたが調子が悪いと外される選手。周りには後に社会人の企業チームに進むような選手もいましたが、彼らは常に出続けていたので差を感じていました」

大学卒業後は社会人・SUNホールディングス(埼玉)に進み野球を続けた。大学時代の仲間には強豪企業チームへ進み社会人1年目から都市対抗出場している選手もいた。同じグラウンドに立っていた選手が活躍しているのを見て気持ちは昂った。都市対抗に出たい気持ちが強くなり、より真剣に野球へ打ち込むようになる。

「大学時代は飛び抜けた選手ではありませんでした。圧倒的にうまくて結果も出していた選手もいましたが自分はそれができなかった。強豪チームからの誘いはありませんでした。それでも野球をやりたい気持ちがあったのでSUNホールディングスに行きました」

学生時代は飛び抜けた選手ではなかったと語る(写真は桐蔭横浜大時代)。

~都市対抗出場のためハナマウイ移籍を決意

「大学時代の仲間3-4人くらいが都市対抗に出ました。応援に行って現地で見たら本当に頑張っていたし楽しそうだった。自分も出たくなりました。その後、いろいろ考えてハナマウイへ移籍することにしました。大学の先輩もいたし都市対抗に行くために選択しました」

ハナマウイにはクラブチームとは思えないほどの実力者が集まり始めていた。チームを率いるのがプロで多くの実績を残している本西厚博監督だった。野球選手としての更なる成長、都市対抗出場を目指して移籍を決意した。

「可能性があると感じました。体験入団時に見たメンバーがすごかったので上のレベルで戦えると確信しました。それがなければ野球を辞めていたかもしれません。同じ南関東地区のJFEが前年度(19年)に都市対抗優勝して予選免除だったので、出場枠を獲得できそうな状況なのも大きかったです」

前チームは企業チームだったため、午前中に練習して午後から仕事を行なっていた。1日が長く感じて集中力が途切れてしまうこともあったという。ハナマウイでは通常業務日は本業の介護サービス業に集中して野球のことは頭から無くしている。野球部活動日にはスイッチを切り替えプレーのみに励む。そういった環境がメリハリを生み出し好循環にもつながっているという。

「ハナマウイは週2回練習で学生時代のように毎日ではないですが練習日は1日ずっと野球をできます。僕は仕事と野球が同じ日にあると頭の中で混ざってしまいます。仕事の日は仕事、野球の日は野球。それだけを考えれば良い環境が合っていました。何より本西さんの教えもあって野球の懐が広くなりました。打撃なんて、めちゃくちゃ良くなりました」

「練習環境、時間、量などの条件を分かった上で入団しているので言い訳はしたくない。時間をうまく使えば埋められる。僕なんて拾ってもらい野球をやらせてもらっている。仕事が多くて練習が少ないとは言いたくないし実際、感じていないです」

移籍した翌年にハナマウイは都市対抗出場を果たした。本大会では初戦で四国銀行(高知市)に「0-1」と惜敗するも、創部2年目チームの躍進は大きな話題となった。林自身も予選から中心打者としてチームに貢献、東京ドームでも1安打を放った。

「ここに入って良かったと思いました。本戦の試合中は互角だと感じながらやっていたので結果は悔しかった。周囲は驚いたかもしれないですが、これくらいは当然だと思っていました。もちろん(四国銀行は)全国常連チームでスコアに見えない差も感じました。満足はできないですが自信にはなりました」

プロを狙えるような選手に成長したが目指すは都市対抗出場のみ。

~大学時代の仲間の死が野球への思い、取り組み方を変えた

野球への思いを駆り立てる理由がもう1つある。大学時代に同級生だった元NTT西日本の内野手・中井諒さんの存在だ。ずば抜けた守備力でプロからも注目されていたが、20年4月に骨肉腫のため23歳の若さで急逝した。

「親友、戦友、仲間…。面倒見がすごく良くて人柄が素晴らしい奴でした。いつもつるんでいた仲の良い奴でした。男6人くらいで朝4時に起きてディズニーランドへ何度も行ったりしました。入院して1度は復帰したので大丈夫と思った矢先に悪化した。亡くなったのは予想外で言葉が出なかった」

「大学時代に守備をスカウトが見にくるくらいでした。プロ入りできたかもしれない奴が亡くなった。中井のことを考えると頑張れるんです。だから亡くなった後から(中井が使っていた)同じメーカーのグラブを使い始めました。メーカーロゴを見るだけで気持ちが奮い立ちます」

チームを引っ張る立場として雰囲気作りには最も気を配る。

~試合に出て結果を出すことでチームを勝たせる

現状に満足することはない。ハナマウイはもっとやれるチームだと思っている。そのためには自分自身がもっと成長して打ちまくるしかない。様々な思いを背負いながら2度目の都市対抗出場を目指しプレーでチームを引っ張る。

「ハナマウイは個々のレベルが高くクラブチームの実力を超えていると思います。個々が結果を出した上でチームとして1つにまとまれば勝てるはず。僕も年齢的に上から2番目なので良い雰囲気、環境を作るのも仕事です。でも若い選手に負ける気はありません。自分が試合に出て結果を出します。この気持ちがなくなったらダメだと思います」

「都市対抗出場したことで他チームからマークされるようになりました。ハナマウイをクラブチームと見ないで企業チーム同様に考え必死にくる。そうなると厳しい部分も出てきて力の差を痛感するようにもなっています。でも高いレベルでやるのは楽しい。再び都市対抗に出られればもっとタフな野球ができるはずです」

~おちゃらけながらも何をするかわからない選手

紆余曲折の野球人生、アマチュア野球界では年齢的にベテランの域にも入り始めている。プロテストを受けて改めて気付いたのは、これから先も都市対抗を目指したいということ。そのためには自身を磨き続け「らしさ」を発揮することが必要と語る。

「『おちゃらけてるけどプレーでは何をしてくるかわからない』という面白さ、不気味さが持ち味。ミスをしてもアホみたいなことやって次に向けて切り替え、何かをやらかしたいと思います。試合中に反省しても答えは出ないのでその時間がムダ。試合じゃない時間に考えれば良い。それが僕のスタイルです」

常におちゃらけているがプレーでは何をするかわからない選手。

相手チームからは「1番良い打者だから要注意」という声が常に聞こえる。思い切って振り抜いた打球が放物線を描きフェンスを超えていく。逆方向へ巧みなパンチショットで打ち返す時もある。ハナマウイの「背番号44」は今日も何かをやってくれそうだ。

(取材/文・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ・ベースボールクラブ)

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